お金持ちの上にも雨は降る。庶民にとっては小気味よい事実だが、当然自分の上にも降る。どんな立場の人間も天気を操作することはできない。多くの人にとって鬱陶しいだけの雨は、人類が誕生して以来ずっと不可避のまま、足元を暴力的に濡らし続けている。
この前久しぶりにコウモリ傘になった。仕事現場に向かう途中、暴風雨で手元のコントロールが効かず、歩道の真ん中で立ち止まって悪戦苦闘していた。「これは濡れるのを覚悟して畳んだほうが良策か」と考えた矢先、傘がバッとひっくり返り、骨が剥き出しになった。慌てて元に戻そうと両腕に力を入れて振り下ろしたが、そこでさらに風が強まり、傘に引っ張られる形で進行方向へ数歩歩かされた。不意のコウモリの散歩は尋常ではないほどの恥ずかしさである。また雨への憎しみが増した。そして新たに「風アンチ」という一文が、私のプロフィールに加わることになった。
雨由来の風アンチ活動は、歪な感情に変容して過去の名作に手が及ぶことになる。映画『雨に唄えば』には、主演のジーン・ケリーが雨の中ずぶ濡れになりながら歌い踊る有名なシーンがある。傘を差すことをやめて、恋が実った喜びを全身で表現している。何度もオマージュされ、語り尽くされた場面であり、私も「タップ習おうかな」と言い出すほどには好きなシーンであった。撮影スタジオでの人工的な雨であろうが、その雨量が多いのも興味深く、制作過程を知ろうと検索したこともある。しかし、そんな好意的な態度も今日までである。
「風吹いてないやんwww」
私は脳内でアンチコメントを入力し始める。
「風なにしてんねん」
「風吹かせてもらってないのダッサwwwwwwww」
「風吹いてないのが映ってる草でわかって草」
「風さーん?笑」
「人見て吹くかどうか決めてるのダルすぎ」
お金持ちにも庶民にも雨は降る。じゃあ風は? 風ももちろんそうでなくてはいけない。誰でも平等に風雨に見舞われるべきなのだから、ジーン・ケリーだけが例外なのはあり得ない。いくら映画とはいえ、映画を観に来るのはいつも風雨にムカついている庶民である以上、そこはきちんとしてもらわないと困る。スタジオだから吹きにくい、は言い訳にはならない、だって私たちは生きにくい世の中を必死に生きているのだから。
ボブ・ディランの『風に吹かれて』だってもう手放しには聞けない。
「曲にしてもらうのに緩めに吹いたのでは……?」
「はいまた有名人への忖度〜」
「『答えは風に吹かれている』ってなに、答え吹かせてもらって調子乗ってんの?」
あらゆる作品に登場する風が、それはそれは本性を隠していて笑ってしまう。
「お前そんなんちゃうかったやん笑」
「雨とタッグ組んだ時のタチの悪さ忘れへんからな」
私は風を、いや、風雨を許さない。雨、いま油断しててビクッとしたやろ。お前もやからな。
もうすぐ梅雨だ。その雨は憎しみを呼び、また嫌な草を生やすだろう。