若くはない。でも、大人としての自信もない
ここ数年、男性から身の上話を聞く機会がとても増えています。仕事の愚痴、恋愛の悩み、将来の不安、日々の孤独。大学生から定年退職後の方まで幅広い世代に話を伺ってきましたが、私自身が40代ということもあり、中でも多いのは30代から50代の男性たちです。もう若くはない。でも、自分が成熟したとはまだまだ思えない。仕事などで若い世代と接する機会が増えてきた。でも、日々のことで手一杯で年長者としての責任を果たせているか自信がない。社会が変化しているのはわかる。でも、心身に染みついた習慣や価値観はなかなか変わってくれない──。男性たちが語ってくれる身の上話からは、そんな〝中堅の板ばさみ〟とでもいうような苦しみが伝わってきます。
私は1980年生まれの文筆家で、恋バナ収集ユニット「桃山商事」の一員として見聞きしてきた話を元に、「恋愛とジェンダー」にまつわる問題をコラムやラジオで発信しています。家には4歳の双子がおり、妻も同じく自営業者の在宅ワーカーです。共働きで双子育児にいそしむ日々は楽しいながらもやっぱり大変で、原稿の締め切りにはほとんど間に合ったことがないし、家事や育児がなおざりになってしまう瞬間も少なくありません。読書や勉強、作品鑑賞やニュースのチェックといったインプットが十分にできていない現状は物書きとして致命的な気もするし、友達と会う時間がなかなか取れない日々は、お茶することが趣味の自分にとって非常にストレスフルなものです。
染めるのが面倒くさい白髪、蓄積するお腹まわりの肉、ワンパターンになりつつあるファッション……老後の資金や子どもたちの教育費などお金の不安は尽きないし、今はまだ元気な親たちの介護も確実に迫ってきているし、何気なく口ずさんだ鼻歌が30年前のヒット曲だったりもする。そんな感覚、みなさんにもありませんか?
今から始まるこの企画は、主として中年世代の男性に向け、「俺たちはどう生きるか」という問いについて一緒に模索していくエッセイ連載です。ここで言う「男性」とは、恋愛対象が女性(=異性愛者)で、生まれたときに割り当てられた性別に違和感を持つことなく暮らせていて(=シスジェンダー)、心身ともにおおむね健康で、仕事中心の日々を送っているような、いわゆる〝マジョリティ〟の男性たちを指しています。そういったイメージに当てはまる男性たちにとっては、悩みや課題を分かち合いながら解きほぐしていけるような、そうでない方にとっては、マジョリティ男性の内実を少しでも共有していけるような、そんな連載を目指していきたいなと考えています。
男性たちはどんなことに悩んでいるのか
では、中年世代の男性たちは今、どのような葛藤やモヤモヤを抱えているのでしょうか。もちろん私がそのすべてを網羅しているわけではありませんが、ここ数年で聞かせてもらった話の中には、例えばこのようなお悩みがありました。
- 10年以上前に別れた恋人が忘れられない。あれが人生の岐路だった気がして後悔
- 妻から家事や子育てのダメ出しをよくされる。そのたび無能感を抱いてしんどい
- 社内結婚の妻が出世し、周囲から「嫁に養ってもらえ」と嘲笑されるようになった
- 子どもが生まれて幸せだが、育児に関わる分だけ同僚に仕事で遅れを取って焦る
- 常に数字やマネジメントのことが頭から離れず、飲酒や風俗通いがやめられない
- セクハラ研修でルッキズムを学んだのに、つい女性を外見でジャッジしてしまう
- 20〜30代を仕事仕事で生きてきたせいか、休みの日に何をしていいかわからない
- 地元の男友達とは腐れ縁だが、最近は話が合わず付き合いが億劫になってきた
- 健康を考えてダイエットしたいが、パターン化した食生活から全然抜けられない
- 結婚したくて婚活アプリを頑張っているが、ノルマのように感じられて疲れる
さて、いかがでしょうか。みなさんにも思い当たるものはあったでしょうか。「あのときの選択が違っていれば今頃は……」と過去を悔やみ、現在の人生がまるで失敗した道かのように思えてしまう瞬間は私にも頻繁に訪れるし、仕事の成果や実績をめぐって身近な人にコンプレックスを抱き、相手との関係がぎくしゃくしてしまった経験にも身に覚えがあります。
子育てに関わることの幸福と、仕事や趣味で仲間に遅れを取ってしまうことの焦りが同居する感覚は痛いほどわかるし、ストレスによる依存行動や、自分の言動が社会規範と矛盾してしまうことの苦しみは、多くの男性が様々なシーンで直面している問題ではないかと感じます。仕事以外の時間の過ごし方がわからない問題も、長年の男友達と段々話が噛み合わなくなってくる問題も、パターン化してしまったライフスタイルから抜け出せない問題も、どれもすごくリアルだなって感じるし、婚活がノルマのように感じられる苦しみは、独身男性の多くが悩まされている問題ではないでしょうか。
内面の言語化に向き合ってこなかった男たち
2021年、私は『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』という本を出しました。これは先に述べたマジョリティ男性のイメージに当てはまる10人に身の上話を聞かせてもらったインタビュー集なのですが、普段は垣間見ることのできない男性たちの内面が生々しく吐露されており、「リアルすぎてグロテスク」「マジョリティこそ最大の謎」「一般男性の内面に着目した視点が新鮮」など様々な反響をいただきました。
例えば、誰もが知る大手企業に勤務する40代の男性は、派遣社員から社内のエリート部署までトントン拍子で出世していった裏で、不安やプレッシャーで不眠に陥り、心療内科にかかるほどの苦しみを抱えていた話を打ち明けてくれました。また、DVを働いて妻と離婚した40代の公務員男性は当時、内なる暴力性をなかなかコントロールできず、毎朝布団の中で「今日は妻に怒りませんように」と祈っていたそうです。
先に箇条書きで紹介した悩みの事例も、一般男性たちが抱える様々な事情も、それ自体が極めて珍しいものかと言うと、多分そうではありません。むしろ〝あるある〟と呼んでいいものだって少なくない。ではなぜこういったものがリアルで新鮮に感じられたのかといえば、それはおそらく、世の男性たちが自分の内面を語らないからです。
自分の感情にあまり目を向けない。つらいことがあっても黙って耐えようとしてしまう。誰かに愚痴をこぼすことを恥と感じる。おしゃべりによってストレスを発散する習慣がない。感情の共感よりも問題の解決を重んじる傾向にある。真面目な会話に照れを感じ、ついふざけたり茶化したりしてしまう──。これらはジェンダー研究の中で指摘されてきた「男性性」や「男らしさ」の特徴ですが、こういった感覚や習慣が、悩みや苦しみを言語化しない傾向につながっているのではないか……。
また、この社会のマジョリティであることも少なからず関係していて、例えば障害者のように制度やインフラ面で不利を被ることはあまりないだろうし、性別やセクシュアリティを理由に理不尽な目に遭う機会は、女性や同性愛者に比べて圧倒的に少ないはず。編著書『ふれる社会学』などのある社会学者のケイン樹里安さんは、マジョリティのことを「気づかずに済む人々」「知らずに済む人々」という言葉で説明していますが、大体において最大公約数の範ちゅうに収まり、多数派という枠組みの中で守られてきたマジョリティ男性は、自分の内面や体験を言語化することからある意味で免除されてきたとも言えます。
社会学者の澁谷知美さんと共同編者を務め、男性性の問題に取り組む専門家の力を借りながら男性たちの抱える課題やその処方せんについて考えた対話集『どうして男はそうなんだろうか会議──いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』のあとがきで、私は次のようなことを書きました。
男性は感情を抑圧し、身体的にも鈍感であることを求められている。だから自分自身を言語化する力が養われず、記憶も流れてしまいがちになる。蓋を開けてみればそこには個々人の傷や問題が存在しており、それらを丁寧に紐解き、ときに誰かと分かち合ってみることが生きづらさの解消につながるかもしれないのに、その回路を開くことはなかなかに難しい。それどころか、弱さから目を背けるための言説や、責任を外部化するための仕組みが社会にやたらと用意されており、被害者性と加害者性が複雑に絡まり合った内面をのぞき込む機会すら乏しい──。(『どうして男はそうなんだろうか会議』「あとがき」より引用)
メディアでは10年ほど前から「男性の生きづらさ」が注目されるようになり、「#MeToo」ムーブメントが広まった2017年あたりからは、男性たちの性差別的な価値観や加害的な振る舞いが広く拡散される光景が日常化しています。共編者の澁谷さんは現代を〝男性の「被害者性」と「加害者性」が同時に語られている時代〟と説明していますが、会社などではハラスメントにまつわる研修が定着し、リアルの人間関係においても発言や振る舞いに気を遣わざるを得ないシーンが増えている。そういった中で、反省や危機感、不安や恐怖、後ろめたさや問題意識、不満や反感など、様々な気持ちの間で揺れ動いているのが、2024年におけるマジョリティ男性の現在地ではないでしょうか。そこに立脚し、ジェンダーの視点も踏まえながら、中年男性が抱える様々な悩みや問題点について考えていくのが当連載の主旨となります。
それは個人の問題? それとも社会の問題?
では、具体的にどのようなテーマを扱っていくのか。まだ暫定的な状態ではありますが、例えばこういったテーマを取り上げていく予定です。
【労働】俺の代わりはいくらでもいる──自己責任社会で使い捨てにされる男たち
【生活】家と会社を往復するだけの毎日でいいの?──human doingと生活の欠如
【旅】日常の中の新しい旅──「どこに行っても大体同じ」なんて感じ始めたら
【親子関係】お父さんはどこへ消えた?──父親の不在と家に居場所がない男たち
【性】俺たちのちんちんは全然〝雄々しく〟ない──甘えと怯えから考える性欲の話
【時間】ゲームと動画で日々の時間が溶けていく──「人生の残り時間」を考える
【友達】抱きしめ合えない俺たち──シスターフッドに学ぶケアとおしゃべりのこと
【美容】セルフケアとしての美容──俺たちはなぜ自分自身を雑に扱ってきたのか
【出世】心を捨てなきゃ出世できないの?──「個よりも組織」なオトコ社会の掟
【政治】暮らしと政治はつながっている?──不安や憎悪が数字になる世界の片隅で
【別れ】感傷や幻想に引きこもる男たち──もう一度考えたい「さようなら」の意味
仕事のこと、日常のこと、身体のこと、人間関係のこと……。これらは男性たちの身の上話に耳を傾ける中で浮かび上がってきたテーマであり、私自身にとっても切実な課題となっているものばかりです。自分を傷つけたり、他者への加害につながったりしている問題も少なからずあり、それらに関しては反省や自己省察を進めていくことが重要だと思いますが、一方ですべて「自分のせい」で片づけられる問題ではもちろんなく、他者との関係の中で発生していたり、政治や社会構造の影響によって生じたりしている側面も大いにあるはず。
私はこれまで『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』や『さよなら、俺たち』などの著書を通じ、どちらかと言うと内省的なアプローチで男性性の問題と向き合ってきました。しかしその後、背後に格差や能力主義といった要因が色濃く関与していることなどが注目されるようになり、そういう中で「個人の問題にしすぎてしまうと、悪しき自己責任論に陥ってしまうのではないか」という声が届き、これは私自身とても不勉強な部分だったと思うに至りました。ここではそのような批判も踏まえ、「個人個人の態度や心がけ」と「それを生み出す社会構造」の両側面から中年男性の問題について考えていけたらと思っています。
名著や名作を「叔父さん」代わりに
さて、少々長い「はじめに」になってきましたが、あと少し……。そんな当連載で頼りにしていきたいのが〝名著〟や〝名作〟の力です。私は現在に至るまで、人生の様々な場面で本やマンガ、映画や演劇などに救われてきました。家に本が一冊もない環境に育ち、小中高時代は好きなマンガと流行りの映画くらいしかカルチャーに触れる機会がなかったのですが、なぜか大学では文学部に入り、友人たちのおかげもあって様々な名著や名作と出会う機会に恵まれました。とりわけ小説や人文書の読書体験は衝撃的で、「文字列を目で追ってるだけでこんなにも笑ったりドキドキしたりできるのか!」って本気で感動したし、モヤモヤが言語化されていくことの気持ちよさや、価値観や思考回路がギリギリと音を立てながら変化していく感覚は、他では味わったことのないものでした。
そんなわけで、各回のエッセイでは私が個人的にズドーンと衝撃を受けた名著や名作の力を借りながら、取り上げたテーマについて掘り下げ、その原因や出口を探っていきます。例えば『秋葉原事件──加藤智大の軌跡』(中島岳志)や『ルポ 最底辺──不安定就労と野宿』(生田武志)を参考に「自己責任社会で使い捨てにされる男たち」について考え、『すべてはモテるためである』(二村ヒトシ)や『男しか行けない場所に女が行ってきました』(田房永子)なんかを参照しながら男性の性欲について再考する。
また、『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン=著、高橋璃子=訳)や『ケアの倫理とエンパワメント』(小川公代)などは、生産性や効率至上主義の呪縛を考え、人生の有限性について捉え直すためのヒントがふんだんに詰まった本だと思います。他にも『私は真実が知りたい──夫が遺書で告発「森友」改ざんはなぜ?』(赤木雅子、相澤冬樹)や映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』(エメラルド・フェネル=監督)から考えるホモソーシャルの闇とか、ガールズバンド「CHAI」の楽曲やマンガ『A子さんの恋人』(近藤聡乃)から考える「さようなら」の重要性とか……とにかく私自身が揺さぶられた名著や名作を可能な限り紹介していくつもりです。
当連載のタイトルは言わずもがな、吉野源三郎の名著であり、宮崎駿の映画でもおなじみの小説『君たちはどう生きるか』を下敷きにしています。主人公の中学2年生・本田潤一(通称コペル君)が、科学に学んだり、歴史に思いを馳せたり、友人の生活を案じたり、自分の特権性に気づかされたり、経済の仕組みを知ったり、上級生の暴力に屈したり、友人を裏切ってしまったり、自己嫌悪を募らせたり……様々な問題と直面しながら思い悩み、「叔父さん」との対話を通じて自分の生き方や社会に対する視座を獲得していく物語ですが、私たちはもはや、コペル君のように若くはありません。なんなら叔父さんよりも年上で、若い世代に範を示さねばならない立場だろうし、もはや身近に人生のイロハを教えてくれる人などいないけれど、当連載では名著や名作に「叔父さん」となってもらい、いろいろ教えを乞うていけたらと思います。
自分をスローダウンさせたいときこそ
ところが、そんなこんなを担当編集である筑摩書房の石島裕之さんと相談し、「これで行きましょう!」という感じでこのタイトルに決まったあと、実はタレントの大竹まことさんが集英社新書から同名のエッセイ集を出版していたことを知りました。2019年の夏に出版されていたその本には、こんな帯文が並んでいました。
もういい大人なのに、
まだ試練がやってくる。
ああ、せつない。
古希・70歳。
「これでいいのか」
自問自答の日々。
(大竹まこと『俺たちはどう生きるか』帯文より引用)
私は大学生の頃から毎年ライブに通っていたほどシティボーイズのファンで、パーソナリティを務められている文化放送の『大竹まこと ゴールデンラジオ!』に呼んでもらったことが人生のハイライトのひとつになっています。にもかかわらずこの本の存在を知らなかったのは不覚としか言いようがありませんが……読んでみると、そこには70歳になった大竹さんの迷いや戸惑いが淡々と綴られていました。ぼやきのような、コントのような、回顧録のような、幻想譚のような、独特のリズムとムードが宿る文章が本当に素晴らしく、「俺には到底こんなもの書けねえよ」とひるみかけたりもしましたが、今の政治や社会を嘆き、自問自答を繰り返しながら若い世代にエールとアドバイスを送っていく大竹さんの姿勢に励まされたのも事実。ではこの時代、中年世代の俺たちはどう生きるか──と決意を新たにし、編集者さん経由で連絡をしたところ、同名タイトルの使用を快く承諾してくださいました。
冒頭で〝中堅の板ばさみ〟という言葉を紹介しましたが、私たちは今、「男はこうあるべし」と「自分はこうありたい」、「怒られたくない」と「傷つけたくない」など、様々な規範や感情の狭間で戸惑っているのだと思います。男らしさの呪縛と男性特権は表裏一体の関係で、簡単に脱ぎ捨てることはできないでしょう。そこへさらに、ここ20年くらいで社会の隅々に浸透した新自由主義的な価値観が追い打ちをかけます。「無駄の削減」「生産性の向上」「時間の有効活用」が是とされ、「もっと速く」「さらに多く」「より正しく」と際限のない努力を求められる環境はどう考えたってしんどいし、失敗はすべて自己責任にされてしまう社会は理不尽そのものです。
すでにキャパシティは限界で、誰もがカツカツの状態でなんとか日々を生き抜いている。そういう中にあっては、「もっと頑張るぞ!」と己を奮い立たせるよりも、いったん落ち着いて立ち止まってみることのほうが大事ではないか……。自分をスローダウンさせたいときこそ本や映画の出番であり、そこに蓄積された知見なども拝借しつつ頭を耕し、心と身体を解きほぐしていけたらと思います。モヤモヤしたものを言語化しながら自己理解を深め、他者や社会との関係を結び直していくプロセスにこそ、我々男性に必要な何かがきっとあるはず。ちょうど去年、星野源さんと若林正恭さんが中年世代の悩みを語り合った『LIGHTHOUSE』(Netflix)というトーク番組も話題になりましたよね。大丈夫、俺たちにだってできる。一緒に生きる道を模索していけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします!