ちくま文庫

野球実況アナウンサーの教科書だ
TBSアナウンサー・熊崎風斗さんによる『プロ野球新世紀末ブルース』(中溝康隆) 解説

4月刊行のちくま文庫『プロ野球新世紀末ブルース』より、TBSアナウンサー・熊崎風斗さんの解説を転載いたします。学生時代から大のプロ野球ファンであった熊崎さんにとって〈平成プロ野球〉とは何なのか?!

 イチロー、松井秀喜、小笠原道大、最近だと田中将大や坂本勇人に到るまで。目次だけでもワクワクが止まらない。『平成プロ野球新世紀末ブルース』=〈野球実況アナウンサー〉の教科書だ!
 私ごとだが、2022年北京五輪で新種目フリースタイルスキー・ビッグエアの実況に携わった。新種目のため放送ノウハウもなく、日本語の記事や参考映像などもほとんどない。なんとかして辿り着いた英語の実況や、中国語の記事を探して研究しなければならない新種目特有の難しさがあった。
 一方、プロ野球実況は真逆──。新聞、本、雑誌など……そもそも圧倒的に情報量が多い。はっきりいって全部追いかけるのは不可能だ。成熟した文化ゆえに視聴者の反応も手厳しく、その高いハードルを越えるのは並大抵のことではない。特に32歳の若手実況アナウンサーにとって日本社会と共に積み上げてきた分厚い歴史は最大の壁になる。染み付いた体験として定着している先人に満足していただける放送がしたい……。しかし、どうすれば良いのか? 悩む私の前に現れた一筋の光こそ、「中溝康隆」であり、『平成プロ野球新世紀末ブルース』なのだ。

 平成のプロ野球というのは1989年(平成元年)生まれの私にとって「知っている」こと、「全く知らない」こと、「なんとなく知っている」ことが混在している。しかし、自分は全て知っていたのだと錯覚してしまうくらい、平成のプロ野球の空気感がこの一冊には宿っている。
 例えば、私が野球を見始めた小学生の頃から「松井秀喜」や「イチロー」は既に日本中の誰しもが知るスーパースターであり、残念ながらスターに駆け上がっていく様をライブで体感することは出来なかった。しかし、この一冊は気取らない文章で当時に気持ちよくタイムスリップさせてくれる。ただ事実を真面目に書くのではなく、当時の世の中を絡めてくることで(この〝世の中〞がかなり偏っているところがこれまた最高なのだが)、より没入できるのも絶妙な仕掛けだ。
 ちなみに記憶にある限り、私が初めて生で観たプロ野球は小学校低学年の頃。当時住んでいた群馬県の敷島球場にオリックスが来た際、興奮した父親に連れられて観戦した。相手チームがどこだったかは全く覚えていないが、とにかくオリックスが凄かった。当時の外野陣は「イチロー」「谷佳知」「田口壮」という今考えても凄まじいメンバーだった。野球知識がないながらも周りの大人達の反応から、この選手達はスターなのだとすぐに分かった。その頃は知らなかった選手達の駆け出し時代の歩みを、まるで自分が立ち会っていたかのように感じさせてくれるこの本の意味はやはり大きい。
 また、先ほども書いたように明確に「知っている」ことがあるのも、私にとっての平成プロ野球だ。本書にも詳しく書かれているが、印象的だったのは、2011年7月20日の「最強投手決定戦」だ。ダルビッシュ有(日本ハム)と田中将大(楽天)が東京ドームで投げ合った伝説的な決戦だ。翌年ダルビッシュがメジャーに挑むことは既定路線だったので、日本で最後の投げ合いになるだろうという思いもあり、台風の中、私は東京ドームに向かった。もう10年以上前のことなのが信じられないが、ダルビッシュの咆哮、稲葉の2ランなど、今なお鮮明にその光景を思い出すことが出来るというのがあの試合の凄さを物語っている。
 あの時代のパリーグには両投手の他にソフトバンク・和田毅、杉内俊哉、西武・涌井秀章、オリックス・金子千尋、楽天・岩隈久志などがいて毎週のように投げ合っているワクワク感があった。楽天ファンの姉と日本ハムファンの私で田中とダルビッシュどっちが凄いのか? 本気で言い争いをしていたあの時代。それこそ私にとっての平成プロ野球であり、アナウンサーとして向き合うプロ野球ではなく単純な一ファンとして観てきたプロ野球の思い出である。今は今で勿論楽しいが、平日18時にCSチャンネルをザッピングしながら野球を見ていた当時のあの感じがどこか懐かしくも思う。
 大げさではなく平成プロ野球がなければ、私自身ここまで野球を好きになっていないだろうし、スポーツアナウンサーを目指すこともなかっただろう。──TBSの面接では、何故か糸井嘉男の凄さを10分間話して、次に進んだということもあった(その面接官はスポーツ局の人間で、そこは本当に運が良かった)。こうして振り返ってみると、今アナウンサーをやっているのは、平成プロ野球があったからこそだと再確認することも出来た。

 恐らく、本書に書かれているエピソードを私が、野球中継で話すことはほとんどないかもしれない。しかし、当時の空気を「知っている」というのは大きな財産であり、自らが発する言葉の質を大きく変え得る力を持っていることは、短いキャリアながらに分かってきた。中溝氏の紡ぎ出す文章を自分に落とし込むことは、どんな野球の歴史書を読むよりも自分の血となり肉となる。
 野球実況アナウンサーとして最高の教科書を手にした私は、平成プロ野球をベースに令和のプロ野球をしっかり伝えていけるアナウンサーになっていかなければいけない。

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