中国古代の歴史書に関して、筆者には好きな話がひとつある。『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の襄公(じょうこう)二十五年に見えるエピソードである。春秋時代、現在の山東(さんとう)半島に位置する斉(せい)の国に崔杼(さいちょ)という重臣がいた。この人が棠姜(とうきょう)という未亡人にひと目ぼれして妻に迎えた。
ところが悪いことに斉の君主の荘公(そうこう)が以前からこの棠姜と私通していたのである。だから彼女が崔杼と再婚したあとも、荘公は崔杼の邸宅に通って関係を続けた。それだけでなく彼の冠を持ち出して人に与えて辱(はずかし)めたりした。これを怨んだ崔杼は、荘公がまた屋敷にやって来た際に、兵に屋敷を取り囲ませて荘公を追い詰め、殺害してしまう。
その際に史官(しかん)(書記官)にあたる大史(たいし)が斉国の歴史書に「崔杼、其の君を弑(しい)す」、つまり崔杼が主君を殺害したと記録したので、崔杼は大史も殺害した。「弑」とは目下の者が目上の者を殺害するという意味である。そしてその後を継いだ大史の弟たち二人も同じように記録したので、崔杼は彼らも殺害した。しかし大史の四番目の弟も同じように記録すると、さしもの崔杼もとうとう音を上げて諦めた。
この時、大史氏兄弟の分族にあたる南史氏が、彼らが全員殺されたと聞いて「崔杼、其の君を弑す」と書いた竹簡を手に朝廷へと向かっていたが、四番目の弟が使命を果たしたと聞くと引き返した。筆者が好きなのは、この南史氏のしつこさ、ダメ押し感なのである。
物事を記録するということに対するこの種のしつこさは、現代の中国人もきっちり受け継いでいるようである。たとえば女性作家の方方(ファンファン)は、二〇二〇年の年頭に新型コロナウイルスの蔓延をうけて自分の暮らす湖北省の武漢市が封鎖されると、旧正月から六十日にわたって日記をネットで発表し続けた。
自分の日記が気に食わない人々にネット上で罵倒されても彼女は書き続けた。彼女のブログでの投稿が、おそらくはプラットフォームの自主規制によって削除されても、更にはブログごと閉鎖されても、あの手この手で投稿し続けた。彼女によると、途中から彼女とまったく面識がなかった別の女性作家に助けを求め、その人を通じて日記を投稿するようになったということである。そうやって六十日間を完走した。
彼女はそこまでしてでも、封鎖された武漢の状況を中国のほかの地域、ひいては世界中の人々に伝えたかったのである。方方はまさしく斉の大史、南史一族の子孫である。
本書では中国古代の歴史書や歴史認識、歴史観の興りと発展の跡をたどっていくことで、中国人の歴史を記録するということに対するこだわりや執念の淵源を探ることにしたい。最終目標地点は、中国の正史二十四史のトップバッターにあたる司馬遷の『史記』である。『史記』は中国古代の歴史叙述のあゆみのひとまずのゴールと評すべき文献である。
†本書の構成
まず序章では、本題に入る前に中国での記録の興りを確認する。具体的には、現在のところ中国最古の文字記録である甲骨文(こうこつぶん)について見ていきたい。甲骨文といえば占いの記録というイメージを持っておられる読者もいるかもしれないが、甲骨文のすべてが占いの記録というわけでもない。
第一章から第四章までの本編にあたる部分は、「歴史認識」編と「歴史書と歴史観」編の二部構成となっている。
「歴史認識」と「歴史観」は同義語として用いられることもある。本書では、「歴史認識」は「明治維新」や「昭和天皇」、あるいは「従軍慰安婦」といったような個別の歴史的事件、人物、事項などに対する評価や見方を指すのに用いる。これに対して「歴史観」の方は、「進歩史観」「皇国史観」、マルクス主義による「唯物史観」といったように、歴史を全体的にどう見るかという見方や視座を指すのに用いる。
歴史書と言っても、中国で歴史書と呼べるものが現れてくるのは戦国時代(前五世紀半ば〜前二二一年)になってからである。第一部ではそれ以前の時代を扱うが、第一部の第一章では、殷周の王朝交替、西周王朝の正規軍、祖先の系譜、天命など、西周時代(前一一世紀中盤〜前七七一年)から春秋時代(前七七〇年〜前五世紀半ば)にかけての歴史認識について、同時代史料である金文(きんぶん)(青銅器の銘文)を史料として探っていく。第二章では、今度は後代に編纂された『詩経(しきょう)』や『左伝(さでん)』(『春秋左氏伝』の略称)などの文献を史料として、西周時代や春秋時代に語られたとされる中国の神話について見ていきたい。
第二部の第三章では、春秋時代の魯(ろ)国の歴史書とされる『春秋』、その伝(注釈)とされる『左伝』、戦国時代の魏(ぎ)国の歴史書とされる『竹書紀年(ちくしょきねん)』など、戦国時代に編纂された歴史書、そして孔子、孟子、墨子など諸子百家が持っていた歴史観を扱う。第四章では目標地点に定めた『史記』の編纂とその背景について探っていく。またそれに付随して、『史記』編纂にも影響した始皇帝の焚書(ふんしょ)と、その前提となる当時の書籍の形態と流布についても見ていくことにする。
終章は本書の附論である。司馬遷は『史記』を編纂するとともに、太初暦(たいしょれき)という暦の制定に携わったとされている。暦や紀年と絡める形で、司馬遷の生きた前漢(前二〇六年〜後八年)の武帝の時代に開始された年号制度の興りについて見ていくことにする。年号と歴史書はあまり関係がないように見えるだろうが、年号制度の興りを探ることで、年号と、特に『春秋』のような年表形式の歴史書の淵源が同根であることが見えてくるだろう。
古代の中国人の歴史叙述や歴史学を巡るいとなみがどのようにして『史記』に結実していったのかを、読者の皆さんとたどっていくことにしたい。
*凡例
本書では甲骨文や金文などの出土文献を引用する際に、原則として現代語訳、原文(漢文書き下し文)の順に掲示した。原文については出来るだけ通行の字体に改め、かつあらかじめ通仮字(つうかじ)に変換した寛式(かんしき)表記を用いる。引用文中の「□」は欠字あるいは不明字を示し、「……」は省略した部分があることを示す。
また、現代語訳内の( )は、語意の説明、あるいは言葉を補っていることを示す。
【目次より】
序 章 記録のはじまり――殷代
第一部 歴史認識
第一章 同時代史料から見る――西周〜春秋時代Ⅰ
1 記録文書としての金文
2 王の歴史、臣下の歴史
3 回顧される西周王朝
4 天命を受ける諸侯
第二章 後代の文献から見る――西周〜春秋時代Ⅱ
1 「神話なき国」の叙事詩
2 祖先神話とその承認
第二部 歴史書と歴史観
第三章 歴史書と歴史観の登場――戦国時代
1 説話で語られる歴史
2 歴史から道理を知る
3 諸子百家の歴史学と歴史観
第四章 そして『史記』へ――秦〜前漢時代
1 古代の書籍の形態とあり方
2 焚書坑儒の再検討
3 『史記』の編纂
4 始皇帝、そして武帝
終 章 大事紀年から年号へ