ちくま文庫

世界の匂いがするファンタジー

乾石智子『炎のタペストリー』解説

本格ハイ・ファンタジーの書き手として、ファンタジー好きから絶大な支持を集める乾石智子さん。最新文庫『炎のタペストリー』収録の、大の乾石ファン・池澤春菜さんの解説を公開します。これまで乾石さんの作品を読んだことのなかった方も、すぐに読みたくなるに違いない解説、ぜひご覧ください。

 優れたファンタジーには、世界の匂いがある。
 例えば、変わりゆく季節。土や木々の気配。風の匂い。人々の生活から聞こえてくる音。一番イメージしやすいのは、食べ物かもしれない。わたしにとっては、〈ナルニア国物語〉に出てくる、木の精ドリアードたちの土のご馳走だったり(かの有名なプリンではなく)、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『時の町の伝説』に出てくるバターたっぷりでなめらか、熱くて冷たいバターパイだったり。
 優れたファンタジーでは、人が生きている。例えどんなにかけ離れた生活様式でも、人ならざる者だったとしても、悩み、迷い、己の道を選び取ろうとする姿に、わたしたちは共感する。
 その世界と、人々を乗せる土台として、魔法がある。それがあるからこそ、世界も人々も生き生きと真に迫ってわたしたちの心を打つ。そして世界と人々が生きていれば、魔法もまた存在感を持って動き出す。
 世界と、人々と、魔法と。それらを言葉で描き出す唯一無二の魔法使いとして、いまわたしが日本で一番信頼しているのが乾石さんだ。

 本作の冒頭、エヤアルの目を通して描かれる世界の美しいこと。この数ページだけで、読者はこの世界がわたしたちの住む世界ととても似ているが、少しだけ違うことがわかる(例えば、わたしたちのいる世界では、ルリツバメは小鳥ではなく蝶のことだ)。
 そしてエヤアルがまっすぐで柔らかな心を持った少女であることも、この世界の人々は誰もが一つだけ魔法の力を持っているのに、エヤアルは持たない〈空っぽの者〉であることもわかる。
 世界が一枚ずつ、薄いカーテンを引くようにその姿を現していく。夢中で読み進め、気がつくと静かに水の中に滑り込むように世界にとっぷりと浸っているのは、乾石作品の特徴だ。
 魔法の力を奪われたが、エヤアルにはある意味それに匹敵する優れた記憶力があった。エヤアルが自分の才能を認識し、磨き、それをどう活かすか、悩みながら己を見いだしていく過程にはわくわくする。36ページで少女たちは花にたとえられる。一度つぼみを摘まれたエヤアルは、カンカ砦という新しい土壌に植わり、新たな花を咲かせた。その後もエヤアルを取り巻く環境は次々と変わっていくが、彼女はしなやかに、強かに適応していく。この野の花のような伸びやかさが、エヤアルの持つ一番の強さなのかもしれない。
 エヤアルは静かに考える。内面と向き合い、人を観察し、自分を曲げることなく、芯を通していく。だからこそ、最後のあの願いを導き出せたのだろう。

 さて、ここからは本編を読んだ人だけ。少し後に、乾石さんのご紹介も載せるので、まだ読み終わっていない人は、薄目でこの箇所は飛ばして欲しい。
 エヤアルの最後の願いを、あなたはどうとらえただろうか?
 わたしの胸には、あの言葉はすっと落ちてきた。
 途中、ペリフェ、カロルとリッカールの夢見た理想郷に、頭は納得しながらも、どこかに飲み込めない違和感を覚えていた(その後のリッカールのやり口が気に入らない! と言うのが一番大きいけれど)。
 平和と安逸と繁栄が隅々まで行き渡った世界、それは確かに理想郷かもしれない。だが、本来、トマス・モアが提唱した理想郷(Utopia)は、管理の行き届いた非人間的な世界だった。
 自分にとって大切な存在を失った絶望を、誰しも味わったことがあるだろう。その喪失感からペリフェたちが求めた夢を、否定はできない。
 だが、守られるばかりで人は幸せになれるのだろうか。食べ物の一番美味しい部分を誰かにあげられること、美しいものを見た時に隣にあの人がいたらいいと思うこと、大切な存在が苦しんでいる時にいっそ代わってあげられたらと祈ること……世界は足りない部分を補い合うからこそ美しいのではないか。全てが満ち足りてしまっては、誰かのことを気にかけることも、心を配ることも、思いを巡らすことも必要なくなってしまう。守ることもまた幸せなのだ。
 それらを全て先回りして満たしたなら、エヤアルはダンに惹かれなかっただろう。ブルーネに解放はもたらされなかった。
 わたしたちが現実にいる世界も、けして美しいものではない。ニュースはいつも、愚かしさと醜さと取り返しのつかない何かで溢れている。いつか、誰かにもたらされたのではない、本当の平和と安逸と繁栄が隅々まで行き渡った世界が叶うかもしれない。でもそれには、エヤアルが炎の神殿まで自分自身の足で上ったように、人が一歩ずつ進んで到達しなければいけないのだ。
 だからそれまで、現実のこの世界でも「すべての人が平和を得るための努力をしますように」。

 乾石智子さんのご紹介を少し。
 山形県生まれ、山形大学卒業、そして山形県在住。一九九九年、「闇を磨きあげる者」で教育総研ファンタジー大賞を受賞。二〇一一年『夜の写本師』でデビュー。ここから始まった〈オーリエラントの魔道師〉シリーズは、日本ファンタジー界の宝だと思う。
 デビュー作から一貫して、端正で薫り高い描写、独創的な存在感を持つ魔法、老若男女、個性溢れる登場人物たちが活躍する、素晴らしい物語を生み出している。象徴に満ちた壮大な物語が、全ての伏線を拾って見事に収束していくさまは、本作でも出てくる様々な色糸で織られたタペストリーのよう。
 そんな中でも、少女が主人公と言うのはちょっと珍しい。
 乾石さんの作品に出てくる登場人物は、男性が多い。
 過酷な運命を背負い、復讐のための魔術士ならざる魔法を身につけたカリュドウ。
 その祖となるギデスディン魔法を生み出したキアルス。
 太陽の石を持ち、己の真の姿と運命と対峙するデイス。
 飄々とした魔道士らしからぬ魔道士、紐結びの魔法を持つリクエンシスことエンス。
 けっこうみんな、困った大人(もしくは少年、老人)なのだ。その中で、エヤアルのまっすぐさと来たら。エヤアルなら、この魔道士たちの間にも負けることなく入っていってびしびし叱ってくれそう。
 何よりも、誰よりも、ご自身が言葉の魔道士である乾石さん。乾石さんから生み出される物語はとりどりの宝石のようだ。どれも読むことで心の中に沈み、わたしたちの日々をきらめきで満たしてくれる。
 これからも、乾石さんの言葉に、世界に、魔法に、触れることができますように。
 たくさんの宝石を待っています。

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