ちくま学芸文庫

『考える英文法』解説

3月刊のちくま学芸文庫『考える英文法』(吉川美夫著)より、斎藤兆史氏による解説を公開します。1966年の刊行以来、半世紀近く親しまれてきた往年の名参考書である本書について、斎藤氏は「むしろ今の時代にこそ広く読まれるべき」と指摘します。それはなぜか、そもそもどうして英文法を学ぶことが重要なのか? ぜひご一読ください。


 本書は,吉川美夫著『考える英文法』の復刊・文庫版である。初版は昭和41(1966)年に文建書房から刊行され,平成16 年の段階で第14 刷を数えるまでに版を重ねたが,版元の倒産にともないしばらく絶版となっていた。
 著者の吉川美夫は,英語業界においてもとくに名の通った人ではないが,優れた学習参考書をいくつも出版している。その実力と業績からすれば,本来,小野圭次郎,南日恒太郎,山崎貞,原仙作,伊藤和夫といった受験英語界の大御所と一緒に記憶されるべき人物である。江利川春雄氏の『受験英語と日本人――入試問題と参考書からみる英語学習史』(研究社,2011 年)は,吉川が河村重治郎および息子の道夫とともに執筆した名著『新クラウン英文解釈』(三省堂,1969年)の解説に相応の紙面を割き,彼を次のように紹介している。

 吉川美夫(1899~1990)は福井県生まれ。高等小学校を出ただけの学歴ながら,小学校教員の検定試験に合格し,小学校で教えた。その合間に河村重治郎の指導で抜群の英語力を獲得し,1921(大正10)年に中等教員検定試験英語科に合格。福井中学の教諭となり,1925(大正14)年には高等教員検定試験英語科に合格した。旧制富山高等学校,戦後は富山大学や東洋大学などの教授を歴任。著書の『英文法詳解』(1949),『新英文解釈法』(1957)などは名著の誉れが高い。師匠の河村と『カレッジ・クラウン英和辞典』などを編纂している。

 また,息子の吉川道夫(1932~97)はトマス・ハーディの研究者として有名な英文学者だが,父親との共著も含め,文法書や学習参考書,さらには辞書も手掛けている。
 吉川親子も含め,ここに名を挙げた人たちの著作は一部復刊を果たし,いまだに根強い人気を誇っているとはいえ,昭和後期以降,残念ながら正当な評価を与えられてこなかった。とくに日本の英語教育が実用コミュニケーション重視に大きく舵を切って以来,いままで文法や読解にこだわってきたから日本人は「使える英語」を身につけることができなかったとの誤解が蔓延し,英文法や英文解釈は時代遅れの学習項目となってしまった感がある。
 では,過去30 年ほどの間,使える英語だ,コミュニケーションだと口頭教授に力を入れた結果,はたして日本人の英語力は飛躍的に伸びたろうか。その間ずっと大学で英語を教えてきた私の立場から言えば,学生の読解力は確実に落ちてきている。その一方で,会話がうまくなっているかというとそれも怪しい。そもそも読解や会話の基盤となる英文法の理解が不十分なのである。それでも,今の英語教育では英文法を明示的に教えるのはよくないとされているから,てこ入れのしようもない。「考える英文法」などはもってのほかだと言われそうだ。昨今では,コミュニケーションだけでは文法能力が育たないとの反省のもとに,コミュニケーションのなかでさりげなく文法事項に気づかせようとするフォーカス・オン・フォームなる教授法が注目を集めているが,見ていてまどろっこしいことこの上ない。やはり英文法は,きちんと教えて理屈で覚えさせるに限る。しかも,優れた文法書があれば,学習者が自宅で勉強することもできる。母語の獲得と外国語学習とは,まったく手順が違うのである。
 日本人は文法を気にしすぎるから英語が使えないとよく言われるが,そうではない。文法が気にならなくなるまでそれを十分に習得していないから使えないのである。言語能力の成長を樹木にたとえるなら,母語能力は,その言語を正しく話す人たちが溢れている土壌から芽を出し,豊富な栄養分を吸って成長する。それはやがて太い幹となって枝を伸ばし,葉を繁らせ,花を咲かせ,実を結ぶ。外国語能力にもやはり幹となる部分が必要なのであり,いつまで経っても葉が繁らない,花が咲かない,実がつかないと嘆いてみたところで,瘦せた土壌にあとから植え付けた苗木だから,意識的な努力によって育てなければ,そのまま枯れてしまう。会話をはじめとする自由自在な母語運用にとらわれ,目にみえる葉や花や実こそが本当の英語力だと思い込んで,学芸会よろしくそれらのついた枝を振り回して英語活動だと威張ってみたところで,枝を支える幹がなければどうにもならない。
 『考える英文法』は,「コミュニケーション」が重視されはじめる前に書かれた本であるとはいえ,浅薄な実用主義を寄せ付けぬ堂々たる風格と,英語教育観の変遷や教授法の盛衰に動じることのない重厚な内容を備えている。まさに王道を行く英文法学習書だと言ってもいい。対象とする読者のレベルもそれ相応に高く設定されており,「はしがき」によれば「高等学校二三年生以上の学生,その他英語に興味を持つ一般の人々」となっている。しかしながら,そのレベルの読者が「相当程度英語の読解力を持ち,また,かなりの英文法の知識の持ち合わせがある」としても,「あちこちで覚えたばらばらの知識や,むりに機械的に記憶した知識は,実際の力としては弱くて,ものの役にたたない」というのだから,なかなか手強い。中高で6 年間も英語を勉強したのに使えるようにならないなどと愚痴ろうものなら,顔を洗って出直してこいと一喝されそうだ。
 本書が一般的な英文法書と大きく違うのは,文法事項に関する知識を「理解し整理された知識」とするために,豊富な練習問題が配されている点である。その仕立てについては《本書の使い方》に記されているが,理想的な学習過程を経るとすれば,それぞれの文法項目について読者はまず問題を解きながら考え,次に解説を読んで理解し,そして頭のなかで整理することになる。まさに本書の題名が示すとおり,「考える英文法」なのだ。とはいえ,本書は問題集ではない。それぞれの設問は文法事項を理解するためのきっかけとなっており,その解説は普通の英文法書よりもむしろ充実している。
 たとえば,「3. 2 不定冠詞と定冠詞との比較」の節の研究問題は,「原則的には定冠詞を用いるはずのところに不定冠詞が用いられている場合を次の文中から抽出して,定冠詞を用いた場合との意味上の相違を考えよ」というもので,問題文の一つとして‘One would suppose you wanted a secondvisit from her.’ という文が挙げられている。普通は定冠詞がつくと教わる序数詞+名詞の句(second visit)になぜ不定冠詞がついているのか。読者はそれを考え,答えが分かっても分からなくても,「解答・考え方」に記された説明を読んでなるほどと納得するであろう。「a second はだいたいanotherと同じ意味。ここでは「もう一度の訪問」。the にすると,すでになされた数度の訪問のうちの第二番めのものの意となる。」なんという明快な説明だろうか。
 また,例文のなかに文学作品を出所とするものが多いのも本書の特徴の一つであり,先の英文はチャールズ・ディケンズの名作『デイヴィッド・コパフィールド』から採ったとある。そう聞くと文脈が気になるもので,調べたところ,この一文は同書第八章における主人公の母親と女中のペゴティとの会話のなかに現われる。ここでのher は主人公の大伯母ベッツィ・トロットウッドを指しており,ペゴティが彼女を話題に出したことに対し,母親は「まるで(以前家に来たあの風変わりな婆さんに)また来てほしいと思っているかのようじゃありませんか」とたしなめる。この段階で大伯母は一度しか家に来たことがないのでこれでいいのだが,もし不定冠詞の部分が定冠詞になっていたとしたら,「彼女の二度目の訪問は,こちらから望んだかのようじゃありませんか」となる。「研究問題」の名にふさわしく,たった一文,冠詞一つでありながら,研究すればするほどいろいろなことが見えてくる。
 本書では英文法が網羅的に説明されているが,とくに個々の前置詞に関する説明が充実している。前置詞は,日本人が冠詞と並んで苦手とする文法項目なので,それを意識しての配慮だろうか。名詞(句)を目的語に取るconcerning やconsidering が前置詞だと聞いてピンと来ない読者も,duringが「もとは,古語dure(=endure「持続する」)の現在分詞」であり,ほかにも「現在分詞から前置詞に進展したもの」として,excepting,notwithstanding,regarding,respecting,saving などがあると聞けば,これまたなるほどと納得する。そして前置詞についても,「研究問題」と「実力テスト」に取り組むことで理解を深めていく。
 もちろん,さまざま文法事項を個別に理解しただけでは,英語力として不十分である。その理解を元に多くの英語に接し,また自分でも使ってみて,英文法を自分のなかで自動化させる必要がある。そして,本書に記された文法事項をすべて理解してそれを自動化させれば,ペラペラとしゃべるだけの会話力をはるかに超える高度な英語力を身につけたと言えるであろう。本書は,日本人の英語学習のある時点において意識的な文法学習が重要であるということ,そして英文法学習がとても奥深いことを改めて私たちに教えてくれる。古典的名著というにとどまらず,むしろ今の時代にこそ広く読まれるべき英文法学習書である。

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