最相葉月

第3回 昇り竜となって天を呑み込む日(前編)

精神障害者が働く鹿児島の小さな会社、ラグーナ出版の挑戦

 

精神疾患を体験した人が、治る、回復するとはいかなることなのか。従来の医療の周辺にはなかった画期的な試みに取り組む人々を訪ねてみると……。サイエンスと医療の周辺を追う連載コラム、第3回!

 ヒトの脳は平均1400グラム。米でいえば10合程度になる。この中に数百億の神経細胞があり、いちじくのような形をしたシナプスを通して細胞から細胞へと情報が伝えられている。情報のやりとりに使われるのが、セロトニンやアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質で、分泌が過剰だったり不足したりするとさまざまな精神症状が現れる。妄想や幻聴に苦しんだり、無気力になったりする統合失調症も、神経伝達物質の機能異常が関係していると考えられている──。
 と、こんなふうに病気は生化学的にある程度は説明できる。効果的な薬を処方されれば、症状はある程度改善するだろう。さて、これを回復と呼ぶのだろうか。病によって失われた時間、人間関係、仕事……そして、生きていくことの自信。回復とはそれらをもう一度取り戻すことだろうか。それとも、回復とはこれまでとは違う別の場所にあるのだろうか。

中井久夫と考える患者

 鹿児島に精神疾患をもつ患者が働く出版社がある。「病の体験を言葉にして力に変えよう」という思いのもと、2006年に設立されたラグーナ出版だ。
 当事者の体験談や文芸作品を収録した雑誌「シナプスの笑い」を刊行するほか、自費出版の編集と製本、名刺や印刷物の作成などを事業として行っている。
 障害者自立支援法(06年施行)に基づく就労支援A型事業所(障害者と雇用契約を結んで一般就労に向けて訓練を行う会社)で、2016年4月現在の従業員数は37名。うち30名が患者で、すべて会社と雇用契約を結んだ社員やパート社員だ。
 出版については大半が初心者であるため事業を支える7名のスタッフがいるが、企画会議から編集、校正、製本、出版まで、主体はあくまでも患者だ。
 私は1冊の本をきっかけにラグーナ出版を知った。昨年11月から刊行が始まった『中井久夫と考える患者シリーズ』(中井久夫監修)である。中井は統合失調症の回復過程に光をあて、臨床現場に大きな影響を与えたドクターズ・ドクターとして知られる精神科医だ。ポール・ヴァレリーやカヴァフィスの詩の翻訳や随筆集でも高い評価を受けている。最近は高齢のため執筆から遠ざかっていたが、本書を楽しみながら作っていることを風の便りに聞き、ラグーナとは一体何者なのかを知りたくなった。
 シリーズ第1巻の『統合失調症をたどる』には、これまでの精神医学関係の書物にはない画期的な試みがあった。統合失調症の発症直前から寛解と呼ばれる回復期までの経過を丹念にたどった中井のテキストを患者が読み込み、自分の体験と照らし合わせながら考えを述べ、そこに中井がコメントする。
 たとえば、発病と恐怖について、ある患者が「発病とは、在りもしないことが起こり、それに振り回されて一喜一憂する状態である。死後の世界にいて、周りの人が悪魔に見える恐怖があった」といえば、中井が、「発病時の恐怖に比べれば幻覚や妄想はものの数ではないといいますね。ある患者は幻覚や妄想という藁にすがりついている。藁を奪おうとするとますますしがみつくのは、これを失うと寄る辺なく漂うことになるからでしょう」と応答する。
 治るとはどういうことか。ある患者が「お互いにこれだけは言ったほうがいいことを伝え、相手を思いやることを考え我慢して伝えないことを身につけられ、心の成長ができていると感じる。発病前の元の自分に戻ることではなく、いい方向に成長している自分がいることだと実感している」といえば、中井はこう返す。「寛解っていうのは、ぼくは、『ほどける』というような感じ、言葉に近く受けとっているかな。自分を縛っているものが、ほどけるとか、そういう感じがどっかにあると思います」
 「中井久夫と考える」ではなく、中井久夫と「考える患者」。ここにはヒトを記述する医学の言葉からこぼれ落ちた、人の言葉がある。中井の表現を借りれば、鋭く繊細な感性をもつ患者の「心の生ぶ毛」。共同作業にあたって中井は、「患者さんからのお墨付きをもらえるんだね」と穏やかに微笑んだという。

病が治ったその先に、道をつくる

 ラグーナ出版の活動の中心にあるのは、年に3回発行する雑誌「シナプスの笑い」だ。副題には「精神障がい体験者がつくる心の処方箋」とある。脳の情報伝達に携わる「シナプス」と、回復期のしるしである「笑い」を合体させたタイトルは会議で決定された。目次をながめると、小説や詩、エッセイ、マンガのほか、医師による解説記事や全国から投稿された当事者の作品が128ページの紙面にぎっしりと掲載されている。
 創刊10周年記念となった「シナプスの笑い」第28号に寄せられた6名の編集者のメッセージが目に留まった。その中の一人、エピンビ(筆名)は、2013年から校正を担当している男性社員だ。
「作品のみならず人間を読む媒体としての雑誌でもあって、言葉の足りないところは読者の想像力に任せて、投稿者たちの生きる世界に思いを馳せていただけたらと思います。病気の後、全般に記憶が曖昧で、しっかりしたことを書くためにはいちいち確認せねばならず間違いもあります。仕事を進める上で壁になっていますが、編集部のメンバーで足らぬところを補い合いながら方向性の分裂もなく、うまくなごやかに進んでいる気がします。当事者をめぐる世相の鏡であればいいと思います」
 病が治ったその先に、道をつくる──。ラグーナには働くことについての根源的な問いがあるのではないか。私は無性に彼らに会いたくなった。

海外土産に人気の大島紬のノート、糸とじの豆本「宮沢賢治作品集」と「般若心経」。「般若心経」にはブータンの伝統的な布を使用。
 

 

 

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