入管を訪れる人々

第3回「在日トッケン」をつくった男・“ミスター入管”坂中英徳(2/2)

言うまでもなく、「在日特権」は存在しない。排外主義集団が攻撃する存在しない「特権」の一つに数えられているのが、坂中が法務省時代に立案した在日韓国・朝鮮人の特別永住許可制度だ。 日本に住んでいながら日本国籍を失った人々の法的地位安定を図る、いわば日本自身が生んだマイナスをゼロに近づけようとしたこの制度は、どのようなバックグラウンドから生まれたのか。

 当時の法務省は(現在も一部はそうかもしれないが)直接の人事通達においてまどろこしいレトリックを使わなかったという。「新天地での挑戦」だの「地域から学べ」ではなく、上司から面と向かって「お前は左遷だ」と言われた坂中は入管高知出張所へ飛ばされた。出張所は部下を含めて3人しかいない。東京に比べて仕事量は格段に減り、日がな海を眺め、カツオを喰い、箸拳で酒を飲む日々だった。30代にして役人人生の先が見えたかと思われた。
 ところが、突然戻って来いという辞令が下りた。1980年4年、法務省幹部から、「お前の論文を具体的に立法化せよ」という命が下ったのである。坂中論文の発表から5年が経過しようとしていた。自身が立案したものが法になることほど嬉しいことはない。坂中は帰京し、実現に向けて走り出した。
奔走は実を結び、翌年の第94回国会で二つの法案が成立する。「出入国管理令の一部を改正する法律」と「難民の地位に関する条約等への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律」である。
 これによる最も大きな成果は、在日朝鮮人に対する「特例永住許可制度」の確立であった。それまで祖国分断を認めたくないという理由などから、日本と国交のある韓国の国籍を取得せず、「朝鮮籍」(北朝鮮国籍ではない)を保持していた在日の人々には、日本の協定永住が認められていなかった(韓国籍を持つ者には1965年の日韓条約によって永住権が付与されていた)。それが、この制度によってすべての在日コリアンは申請さえすれば、永住権が取得できるようになったのである。
 文在寅大統領が讃えた小説『火山島』の作者で『ルポ 思想としての朝鮮籍』(中村一成著)にも登場する作家の金石範に訊ねると、「あれで我々はやっと落ち着いた」とこの立法を大きく評価していた。実際、それまでは日本で生まれた二世や三世でさえも「外国人」の扱いであったために刑事罰などを受けると国外退去に処され、行ったこともない祖国に強制送還されるという可能性もあった。その懸念がなくなっただけでなく、社会保障制度もようやく適用されるようになった。そしてこの法案によって日本は難民条約の批准が可能になったのである。
 坂中論文は批判されたが、いざ法律が施行されるとほとんどの在日朝鮮人が永住資格を取得。これによって北朝鮮への帰還運動が終焉したと言われている。

 そして今、坂中は排外主義者たちの攻撃の標的になっている。行政書士の家森健は、坂中が退職金によって立ち上げた移民政策研究所事務所の前で、在特会がヘイトスピーチを繰り返す街頭宣伝を行っているのを目撃している。坂中の作った「特例永住許可」が在日コリアンの持つ特別権利だというのである。いわば、ありもしない「在日特権」の生みの親と坂中を目している。先述した通りこれは特権ではなく、それまで日本政府によって放置されていた在日コリアンの地位をようやく安定させたに過ぎない。家森はまた保守系の集会で排外主義者を怒鳴りつける坂中も見ている。
「今でも熱いんでしょうね。法務官僚でありながら、叙勲も拒否。関連天下り団体にも就かない。そこが凄いと思う」(家森)
 坂中はいつも批判の渦中にいる。坂中論文は、全く立ち位置の異なる勢力の両方から、罵声を浴びた。かたや「同化主義者」、かたや「特権許与者」である。上司とぶつかり、煙たがられて行政官の晩年は左遷の連続で定年を前にして職も辞している。役所においては恵まれた人生ではなかったが、それでも今なお自らに“ミスター入管”の名を冠して憚らない。
 一方で、現在、坂中と会話を重ねたり、彼のブログや自費出版で出し続けている論文集を読むと、何度も同じ結論を延々とループさせていることに気が付く。会話も文章もあまりに冗漫で屋上屋を架している。そして「もうすぐ僕の時代が来るよ」というのが口癖だ。辟易する。私は馴れ合わないのでループが始まると電話を切る。しかし、そこに坂中の淋しさを見る。孤立無援の官僚時代、歴史に残る仕事をしながら、真っ当な評価をされて来なかった孤独である。

 3月13日、そんな坂中に私は新大久保の延辺料理の店で向き合っていた。久々の会食だが、「離職して14年も経つ坂中さんに言ってもせんないことだが」と言って怒りをぶつけていた。この前日の12日、東京品川入管に収容されていたクルド人男性のチョラク・メメットさんが体調を著しく崩し、家族に「息ができない」と助けを求める電話をするも当の入管側は病院に連れて行かず、どころか、弁護士が手配した救急車を2回も追い返すという事件を起こしていたのである。
 腸が煮えくり返っていた私は「入管が外国人犯罪を取り締まるのは分かるが、人命に関わることで何度も収容者を見殺しにするのは刑務所以下でないですか。坂中さんがミスター入管を名乗るならば、それはミスター絶滅収容所ではないか。そんなことでええんですか」と言い募った。
「その事件のことは知らなかった。入管に医者はいないから、それはあかん。その人は助かったの?」
 メメット氏は13日に病院にようやく搬送された。2013年の秋に入管では被収容者の健康が危ないとなったら、即座に救急車を呼ぶようにという内部通達が出されたということだが、履行されていない。外国人受け入れの窓口である入管がかような人権意識では、移民大国どころか、もはや政治難民も日本を亡命先に選ばない。
 昨年12月、ミャンマー政府からの迫害を逃れてタイ東部のキャンプに暮らすカレン民族の難民の人々を取材した。彼らは日本の入管局が入管庁に格上げされ、外国人の受け入れを進めるということを知っていた。しかし、日本に渡った同胞たちからの肉声はとっくにキャンプ内に知れ渡っていた。「私たちは絶対に日本には行かない。日本は移民も難民も理解しない。外国人が奴隷にされる国だ」と口を揃えた。もはや、移民を入れてやるという姿勢でいるのはあまりにも現状を知らなさ過ぎる。難民に関して言えば、第1回で記したタミール人のAのように、カナダに行こうとしたのにトランジットで日本に寄ったばっかりにそこで捕らえられてしまった人々がどれだけいることか。
 坂中は「明治時代は船の渡航だったけど、日本はトランジットでの亡命を認めているんだよ。黙認すりゃ、ええだけなんですよ。ノン・ルフールマンの原則(迫害が予想される国や地域に追放・送還することを禁止する国際法上の原則)だけは守らなければならない」と言う。
 入管は元々、戦後GHQ支配下の時代に外務省の外局としてできた役所だった故に、法務省に移管した後も長く外務省からの出向組が課長職を占め、人権よりも外交配慮ということで、難民に冷淡になった。あるいは主流は検事の役所だから、検事が理解しないものは潰される、等々、もっともらしい理由の指摘はもうどうでも良い。眼前で起こり続ける問題にどう対処するのか。
「入管職員も誰も収容者を見殺しにしたいとは思ってはいないはずだ」
「坂中さん、ミスター入管ならまだこれから難民のことをやろうやないか。もう自費出版の論文よりも町に出よう。貴方が牛久(東日本入国管理センター)に行くだけでメッセージになる」
「それはタイミングを選ばんとな」
 会話をすればループばかりの坂中であるが、それでも多くの同輩や後進が彼を慕い集まってくる。そんな現場をたくさん見た。それは坂中の寛容さがなせる業で、どんな批判でもまず受け止めるという性格によるものだ。意見が真っ向から対立した故・梶村秀樹もまた坂中を信頼して、金嬉老の件で相談に来たことがあるという。また、1990年に大阪の入管局長らが暮らす公務員宿舎が、入管法に反対する中核派によって爆破されるという事件が起こったが、坂中がこのときの速報が載った中核派の機関誌『前進』を持っていたのには驚いた。前編にも書いたが、公安筋に頼むのではなく、批判を読み込むために自ら新宿の模索舎に買い求めに行ったのだ。
 昨年春に行われた坂中を慕う入管の若手職員のバーベキュー大会で、ある女性職員が言った言葉が忘れられない。関西出身の彼女は周囲に外国人が多く暮らす地域の出身で、その人々のためになるような仕事をしたいと、司法試験と入管の試験を受けた。両方受かった彼女が選んだ道は後者だった。「なぜ弁護士にならなかったのか?」という問いに、 「弁護士ももちろんすばらしい仕事ですが、担当する人しか救えない。でも入管に入ることで中からたくさんの人が救えると考えたのです」 組織の中には、こんな人もいる。
 今は『人間臨終図巻』を読んで死に支度をしとるんや、という坂中には、在野からまだまだ働いてもらわなければならない。

写真撮影:島崎ろでぃー

(著者注)リードでも指摘しているが、存在しない「在日特権」というワードだけがタイトルのみネット上で流布していることを危惧して、前編もあわせて「『在日トッケン』をつくった男・“ミスター入管”坂中英徳」というタイトルに改めた。