遠いエコーが自分に反響する
柴田:では、もうひとつ朗読をお願いできますか?
柴崎:はい。今度は『百年と一日』の一番最後に入っている話を読みます。タイトルは「解体する建物の奥に何十年も手つかずのままの部屋があり、 そこに残されていた誰かの原稿を売りに行ったが金にはならなかった」。(続けて本編を朗読)
柴田:ありがとうございました。今テクストを見ないで聞いていたんですけど、間借り人の女が住み始めた話になるところで、パッと時間が変わるのに驚きました。さらにそのあと、今度はその女より前に住んでいた男の話になりますよね。しかも、間借り人の女の話は本筋に直接つながる情報だけど、その男の話はあらすじ的には関係ないじゃないですか。それを最後に入れるというのは、すごく意図的な選択だと思うんです。
柴崎:そうですね。この男の話はたった6行しか書いてなくて、彼が部屋で模型を作っていたことは誰も知らないんです。次に住んだ間借り人の女も家主の次女も、彼が住んでいたことさえ知らない。でも、知らなくても、時代を超えて同じ部屋を共有して、どこかで遠いエコーみたいに反響してるようなことってあるんじゃないかなと思うんです。そういうことは、普段町を歩いたり生活をしてる中でも感じることがあるので、小説でそういう感じを書きたいなと思ったんです。
柴田:なるほど。それともう一つ、語り手は間借り人の女の前にこういう男がいたことを知っているわけじゃないですか。つまり全知の語り手というのが明らかにいるはずなのに、その人の影がすごく薄い。そこが、実は柴崎作品のかなりすごいところじゃないかと思うんです。
柴崎:小説って、語り手が濃かったり薄かったりというのはあるんですけど、よく考えると誰が誰に向かって話してるのかわからないというのはけっこうあると思うんです。そのことはずっと疑問で、小説って変な型式だなと思うんです。でも、分からないし、永遠の謎みたいなところがあるからこそ、私はずっと小説を書けているのかなと思います。
柴田:読み手で多く勘違いがあるのが、語り手と作者を同一視することだと思うんですが、柴崎さんとこの語り手の関係というのは、ご自分ではどういう感じなんでしょうか?
柴崎:この場合は、さっきの怪談の話でいうと、そこにいる幽霊みたいな感じかもしれないです。でもそれはやっぱり自分でも謎で、「これは誰が誰に語ってるのか?」ということは、いつも考えながら書いているというか。
柴田:この語り手を消そうとか、自分の色や匂いを抜こうとかいうことは、意図的にやるまでもなく、わりと自然にできてしまうことなんでしょうか?
柴崎:そうですね。やっぱり自分が読むときもそういう小説が好きなので、こうなってるんだと思います。意図的に抜こうというものではないですけど、「ああいう感じの文章がカッコいいから書きたい」みたいな意図はあります(笑)。
柴田:なるほど。それでは僕も、今読んでいただいた作品に応答するかたちで、ジェームズ・ロバートソンという人の作品を朗読します。“One Night in the Library”、「ある夜、図書館で」というタイトルです。(朗読する)この人は1年間かけて毎日1本ずつ書いて、それを次の1年かけてネットで発表して、最後は『365: Stories』(2014年)という本にまとめるということをやっています。今読んだのは8月24日の話なんですけど、柴崎さんが読んでくれた話の中に出てくる間借り人の女が書いていた「原稿」とこの本とがちょっとつながるような気がして選びました。最後の1行で、突然、「男のはるか昔の目撃者がまだこの図書館にいる」と言われて、ほんとに突き放されるんですけどね。
柴崎:そうですね。それこそ、これは誰が誰を見て、誰が知っていて語ってるのか、いろいろ気になりますよね。
柴田:この人の作品は、一度読んで素直に「ああ面白かった」で終わらなくって、「えっと今のは…?」って戻ってくことがすごく多いんですけど、考えさせられますよね。
柴崎:「今のは何?」ってなるのも好きです。長編だとそういうのはあまりないかもしれないですね。
柴田:やっぱり長編の場合は、いずれは何らかのかたちで落とし前がつけられることが多いのかな?
柴崎:ある程度そうだと思いますね。前日譚的な何かがあるとしても、長編はストーリーとともにゆっくりそれが始まっていく感じがするんですけど、短編はそれが既に始まっていて、何かもう取り返しがつかない状態で進んでいる感じがするんですよね。
柴田:おおー、そうかぁ。
柴崎:すでに始まっていて、急に終わるっていうか。やっぱりその感覚が好きなのかなと思います。