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「いい問い」の「いい」と「問い」はどういう意味か?

新規事業、起業、地域課題、研究テーマから、働き方、生き方まで! すべてに関係するのは「問い」をもつということ。では、その問いはどうやって生まれるのか? 宮野公樹『問いの立て方』の序を公開します。そもそもから考え始めましょう。

「いい問い」に限定しない
「いい問いの立て方」を考えるにあたり、直ちに三つ、思いつくことがあります。
 一つ目は、「いい」という言葉の意味。いいとは、「良い」か「善い」か。前者なら、基準なり指標なり、何かしらの尺度が必要となります。
 二つ目は、「問い」とは何か、ということ。調べれば答えがわかる問いもあれば、答えなどない問いもある。前者は「問題」や「質問」と呼ばれるものだろうし、後者は「課題」や「テーマ」、「目標」の類いとなるでしょう。
 三つ目は、そもそも、いい問いの「立て方」という何かしらの方法論があるのか、ということ。言い換えるなら、いい問いを見つけようと思って見つけられるような問いが、果たして「いい問い」であるのか、という疑問です。
 のっけから元も子もない物言いですが、そもそも論から考えるような思考の仕方こそが、ほんとうの「いい問い」を持ちうる唯一の方法と考えます。目新しいハウツー的なやり方も大事ではありますが、むしろそういうやり方を生む思考のほうがより根本にあるのは間違いないことですから。
 さらに、このまま筆を続けて、

 それでは、本書では「いい」を良い、「問い」を課題、と設定した上で考えていきますね。

 という風にはしたくありません。確かに定義や境界条件の設定により、より厳密かつ正確な議論ができるでしょう。今日においてよしとされるロジカルとはそういうことですし、昨今はエビデンスベースという言葉もよく目にします。
 しかし、私はそのやり方にてほんとうのところでの「いい問い」を摑めるようになるとは思えません。ロジカルをよしとするのも、ロジカルがよいという考えがあってのこと。なぜロジカルであったりエビデンスベースであったりすれば我々は正しいと思ったり、納得できると思ったりするのか。ほんとうの「いい問い」を考えるにあたっては、そもそも論の果てまで考える必要があると思うのです。

 では、「いい問いの立て方」をどのように考えていくのか。それは何なのか。

 それは私にもわかりません。私は答えや意見を持っていません。ただ、確固たる考えはあります。どう「確固たる」かというと、本気でほんとうに「いい問いの見つけ方を考える」なら、誰がどう考えてもそう考えるだろうという「考え」があるということです。したがって、本書を読んで頂いているみなさまといっしょに、暗闇のなか手探りで探し物をみつけるような、そういう思考の追体験ができるはずです。言うなら、それが可能かどうかが、私の挑戦でもあるわけです。我ながら大胆な挑戦とは思いますが、試みる以上はあらかじめ本書のスタンスをご理解していただくことに努めようと思います。
 気の利いたアイデア的な何かしらコロッとした答えめいたものを望まれる方には本書は向いてないかもしれません。課題は分割して考えなさい、こういう問題にはこういう別視点を入れてみなさい、テーマにちょっとした矛盾を含めなさい、解決策に物語性を入れなさい……といった「私(著者)は答えをもっている」というスタンスの本ではありません。そのような内容は、私からすると、どうも「こうだからこう」というようにインプットとアウトプットを直接的、物理的にとらえすぎのように思えます。そのインプットとアウトプットは、いずれも「結果」です。インプットも「それをインプットしよう」と考えた結果だからです。つまり、結果をどうにかしようとして結果だけを扱っているように見えるのです。なぜそのアウトプットを求めるか、なぜそのインプットなのか、といったような「問い」の背景を十分に踏まえてこそ本質的な「いい問い」に迫れると考え、本書では、それら「結果」をもたらす理由や原因にこそ着目します。そのほうが結果に与える影響は断然大きいはずです。

言葉の多義性の受諾
 もう一つの本書のスタンスは、「いい問い」を意味合いや場面で分けずに考えていくこと。その理由は、「いい」と「問い」という言葉の多義性にあります。
 これは、我々が素朴に求める「いい問い」というものは、「良い」か「善い」かにすぱっと二分できないものではないかと思ったためです。確かに言葉(この場合、単語という意味)が違うから意味するものも違うのは当然です。しかし、我々が日常生活において「あ、これはいい!」と思うとき、良いと善いの違いをそれほど意識していません。もっと漠としたもの、良いと善いの混在。それが「いい」の本来の性質ではないかと思います。
 「問い」もまたそもそも定義しにくい性質のものです。先に書いたとおり、「問い」の言い換えとして、質問、問題、課題、目標、テーマなどいくつかあげられます。そしてそれらは明確に区別しづらい。問題がそのまま目標であったり、課題をテーマとして扱ったり、我々は日常的にそのように「問い」という言葉を使っています。なお、問いの性質を特定させるのは、その問いの「場(形式)」となるでしょう。例えば、学術的研究会でとりあげる学問的な問い、ワークショップで対話を活発にさせる問い、新規事業開発にて世間で注目を集めるための問い。このような場に依存して問いの性質は限定され、我々はスムーズに「問い」という言葉を使っています。
 以上、この二つの理由により、本書では、「いい問い」を意味合いや場面で分けずに真正面から扱います。場面ごとに違うその場その場の「いい」と、あらゆる場面でも共通して絶対的に「いい」のは、どちらのほうがより「いい」かは、言うまでもないことですから。これはきっと抽象度の高い話になるでしょう。しかし、それに耐えなければなりません、読み手も書き手も。先に述べた「原因を扱う」とは、考えを扱うということ。考えとは目に見えないものですから、抽象度が高いのは当たり前なのですが、どうも二〇世紀以降この手のメタフィジカルな思考と現実の乖離がいっそう顕著になり、考えは考え、食うことは食うこと、と別々にされて久しい。本書では、この壁をなんとか乗り越えようと理解の深化をねらいとして、この手の本では珍しく図による論の解説を試みています。

 さて、第一章では、「いい問いとは何か」について考えます。これを考えずに思索を進めるのは、ゴールが決まっていないのに走り出すマラソンのようなものですから。
 第二章は、「いい問いにする方法」についてです。今もっている問いを「いい問い」にする方法について考えます。
 最後の第三章は、「いい問いの見つけ方」です。この章ではじめて具体的な社会的課題や今日を生きる我々が知らず知らずのうちにもっている考えの偏りについて述べてみます。

なぜこの順番なのか
 ここで読者のみなさまは、最後の第三章「いい問いの見つけ方」こそがまず最初なのでは? と思われたかもしれません。しかし、私はそのようにできませんでした。なぜなら、そもそも問いは誰しもが既にもっているものだからです、必ず。
 例えば、普段、学生と話していて「やりたいことが見つからない」という人は少なくありません。これはいうなら「自分の問いが見つからない」という類のものですが、その「やりたいことが見つからない」というのも立派な「問い」でしょう。
 この種の問いの答えは「やりたいことが見つかること」と思われがちですが、ほんとうにそうでしょうか。見つからないのは「やりたいこと」ではなく「自分」のほうでしょう。自分がわからないからやりたいことが見つからない。自分の中に軸がない。そういう段階で、いかに多種多様な体験をしてみたり、片っ端からいろんな本を読んだりしても、やりたいことは見つかりません。
 慌ててて付け加えますが、そのような探索活動を否定しているのではありません。自分の外に何かを見つけようとして探索するのではなく、いろんなものを探索しながら、自分の気持ちは何に反応するのかを観察する内なる目がほんとうに大事だと思うのです。自分はこれをやってみて面白いと感じた。でも、なぜ面白いと感じたのだろう。それは気分的なことなのか、それとも自分自身の根幹、アイデンティティに関わったことだからなのか……。このように気分的な好き嫌いを超えたところでの思考も伴わないと、あれも違うこれも違うといつまでも探し続けることになることは間違いありません。

考えなければ自分もない
 どのような「問い」も、自分というものと切り離せません。どのような「問い」も、必ず自分自身に向けられる論理です。考えてもみてください。何かを願っている、何かに怒っている、それは自分であって他人ではありません。自分がいなければ問いもありません。ここで「問い」を「考え」と置き換えても同じことです。自分がいなければ考えもない、これを裏側から見れば、考えがなければ自分もない、となります。
 霊長類学者・山極壽一先生が言うように、我々人間はどうしても考え、あるいは意味を求めてしまう動物です。例えば、何もない真っ白な部屋の中央にぽつりと丸い球が置かれていたとします。その部屋に足を踏み入れると我々は必ず「なんでこれがここにあるのだろう」とか、「この空間、この球は何を意味しているのだろう」といった考えが脳内に生じるでしょう。この事例でも見事に「問い」と「考え」は一致しています。
 そもそもなぜ人は問いあるいは考えを持つのか、の答えがこれです。そもそもそういうものなのです。そして、考えとは言葉のことです。なぜなら言葉なしにはいっさい考えられませんから。つまり言葉をもった時点で人であるということです。そしていっそう恐ろしいのはその言葉は自分自身で発明したものではないということ。気の遠くなるほどの時間、人の生き死に、それらを経て在る言葉というもの。それを人なら誰でも持って使っている。それは有史以来の人の歴史そのものを誰しもが持ち歩いているということです、自覚するにせよしないにせよ。この世は自分の見方でしか見られないけれど、「言葉」として「考えている」ということはそのちっぽけな自分を軽々しく超えているということ……。
 この驚き、なんだか妙な気分、わかったようなわからないような、宙に浮いた心持ちにに少しでもなったなら、ほんとうの「いい問い」を考えるスタートラインに立ったということです。さっそく次の章へと進みます。