料理人という仕事

そして独立へ

料理人・飲食店プロデューサーの稲田俊輔さんによる「料理人という仕事」。いよいよ、独立の時を迎えます。では、独立にむけてどういった心構えが必要でしょうか。

独立に向けて
 さて、あなたは料理人として一人前です。何をもって一人前とするかは難しいところですが、まあ、自分で自分が一人前だと思えたらそれでいいんじゃないでしょうかね。そうなるといよいよ独立を考え始めることになるかもしれませんが、ひとつ大事なのは、料理人として一人前になるだけでは独立はできないということです。以前、料理人の仕事は料理だけではない、ということについては説明したと思います。そんな料理以外の仕事に関しても、あなたはすでにエキスパートでなければなりません。でも少なくとも、料理人として一人前になる過程で、あなたはそのことを既に身をもって知っているはずです。だからこのことについては、これ以上クドクドとは言いません。
 これも当たり前のことですが、独立するということは、料理人である以前に経営者となるということです。ここまでの経歴で、ある程度の規模のお店で「店長」という職務を経験しておけば、ここはだいぶ有利になるはず。店長というのは、オーナーや会社に経営を一部任される職種と言えます。どの程度の権限(と責任)が与えられるかは色々なケースがありますが、そこに真剣に取り組むということは「経営の練習」と言えます。是非、というか絶対に経験しておいてください。そしてそれに、料理以上に真剣に取り組んでください。

独立に必要なもの
 独立にあたっては「先立つもの」が必要です。お金、ですね。いったい何に幾らぐらい必要なのか、手元には開業資金以外にどれくらいの運転資金を残しておくべきなのか、どこからどうやってお金を調達すればいいのか、そのお金を借りるための経営企画書はどうやって作成すればいいのか……。これは様々なケースがありますし、そういうことに関する専門書はたくさんありますから、ここではこれ以上触れません。保健所への申請など、お金以外の事務手続きもいろいろありますが、それももちろんそういう専門書に載っています。
 もうひとつ、あらかじめ最悪のパターンも想定しておいた方が良いでしょう。「もしお店がうまく行かず、そのまま潰れてしまったら」です。原則としてはお店(会社)が潰れても、オーナー(社長)であるあなたの財産は守られます。しかし現実的には、個人店の借金はオーナー個人が連帯保証人になったり、個人で借金してそれを会社に貸し付ける形を取ることも多いはず。なので基本的に店が潰れるということは、あなた自身の自己破産とセットと考えておいた方がいいかもしれません。
 自己破産と言うと人生が詰んだような印象も受けるかもしれませんが、決してそんなことはありません。いくらでもリカバリーはできます。とはいえそんなことは起こらないに越したことはないので、怖がりすぎずに正しく怖がりましょう。そのためには、その辺りの勉強もあらかじめしておく必要があります。

飲食店は本当に「すぐ潰れる」のか
 潰れる話を続けますが、もう少し辛抱してください。飲食店は開業から3年で7割が潰れ、10年後には1割しか残らない、なんていうことが言われています。もちろんこれはデータに基づく数字です。
 飲食業は参入障壁が低いが持続性も低い、つまり始めるのは比較的簡単だけど継続していくのは難しい、というのは確かです。ただこの数字自体は、個人的な肌感覚とは大きく乖離しています。おそらくこの数字には、資本のあるところが立ち上げた店を早めに損切りして別の店を立ち上げ直す、いわゆるスクラッチ&ビルドや、異業種の会社が安易に飲食部門を立ち上げて案の定うまく行かない、みたいなパターンも多く含まれているのではないかと思います。経験のない個人が流行りのフランチャイズに手を出し、流行が終わってそのまま閉店、みたいなこともよく見聞きしますね。もちろんこれはこれで深刻な問題ですが、おそらくこれを読んでいる皆さんにはあまり関係のないことでしょう。この「廃業率」と、我々がイメージする「独立からの失敗」は、似ているようでだいぶ違うのかもしれません。
 私もこれまで、一緒に働いてきた仲間や他店の知り合いが独立していった例をいくつも見てきました。今そのひとつひとつを思い返してみると、店を潰してしまった人はむしろ少数です。その少数も、家業を継がなくてはいけなくなった、とか、副業の方が軌道に乗ってそちらに専念することになった、など「自己破産」とは無縁なケースがほとんどです。もちろんそれはたまたまであり、私の周りが優秀な人たちばかりだった可能性は否定できません。
 しかし皆さんはおそらく、自分が独立するまでに、先輩たちが独立していくのを見送っていくことになると思います。きっとその多くが、なんだかんだなんとかなっている様も見ることになるでしょう。先輩凄いなあ、先輩いいなあ、俺もああなりたいなあ……そうやってその後ろ姿を追っていくことができれば、独立は(もちろんたいへんですが)、そんなに怖いことではありません。怖いのは、とにかく、安易な独立です。まあそんなことくらい、飲食業に真面目に携わっていれば嫌でもわかるはずですが。
 世間ではよく、退職したサラリーマンが退職金を注ぎ込んだ店を潰す、みたいな話がおもしろおかしく語られることがあります。しかし少なくとも私の周囲で、そういう人は今のところほぼいません。飲食に対して情熱と知識があり、社会人としての経験値も高いからだと思います。若い頃に、あるいは開業前に、アルバイトなどでしっかり経験も積んでいます。逆に言えば、そういう諸々が無いまま安易な独立で退職金を溶かしてしまう特別ウッカリした人が、世間で悪目立ちしているということでしょうか。

独立のカタチとキモチ
 独立はほとんどの場合、ごく小規模な店から始めることになるでしょう。夫婦2人だけで始める、というケースが王道でしょうか。そしてそのままずっと小規模な経営を続けるというパターンが多いと思います。現代では、昔より確実に、人を雇うことが困難になっているからです。若年層の人口が減り続けていますし、人件費は上がり続けています。修行なんだから低賃金・長時間労働でも構わない、というのは完全に時代遅れの価値観です。「それでもいいから働かせて欲しい」と考える人が万が一いたとしても、それをそのまま受け入れるのは、現代の経営者としては問題です。
 だから私は、夫婦なら夫婦で、ずっと小さい店をやり続けるのが「幸せな料理人」の生き方の基本だと考えています。ただし私は以前、この考え方をある年配の店主に嗜められたことがありました。「そういうことを言うものではない。それではあまりに夢がない」、と言うのです。その方は、いく人かの大成功したオーナーシェフの名を上げて、

「あの人たちみたいに一軒の店を予約困難店にして、値段も相応にどんどん上げていき、人を雇って店を大きくし、支店も出してさらに優秀な若い人を集めて、しっかり儲けて名も上げる、そういう夢を持たないと単なる負け犬ではないか」

 正直私はその意見に圧倒されました。一理あるどころか、確かにこれは正論かもしれません。ただ同時にそれは少し古い価値観であるようにも思いました。そして、その「儲けて名を上げる」というのは、自分の考える幸せとは少し違うような気もしました。でもそう思うこと自体、自分が向上心やハングリー精神に欠けているということを意味しているのかもしれません。
 身も蓋もないことを言えば、どちらが幸せなのかは人それぞれでしょう。正解はありません。むしろ皆さんがどう思われるかを聞いてみたいです。ともあれ、ひとつ確実に言えることは、始めた店は何が何でも潰したくない、という強い思いを持ち続けることがまず必要だということでしょうか。その先の話はまたその先の話です。
 夫婦で始めた店でよく見かける「その後」があります。奥さんが妊娠して店に出られなくなるケースです。その場合、店は「ツーオペ」からそのまま「ワンオペ」に移行することもあれば、一時的にアルバイトスタッフを雇うこともあります。先に書いた通り、アルバイトスタッフを雇うことは現在困難ですし、雇えたとしてもそこにはまた別の苦労があります。あるお店では、奥さんが赤ちゃんをおんぶ紐でおぶったままでお店に復帰しました。いずれにしても大変です。家族経営の小規模店ではある種の正念場と言えるかもしれません。
 こういう事例を見聞きすると、改めて、先の店主が言ったように「人を雇って店を拡大」することで、家族経営から脱するのが正解という意見に説得力が生まれるような気もします。もちろんそこにも絶対的な正解はありませんが。
 夫婦ではなく友人同士で始めるというパターンもあります。いわゆる共同経営ですね。店長やマネージャー職を経験してきたサービスマンと料理一筋だった職人のタッグなんて、ある種理想的な形態にも思えます。ただ、これはあくまで一般論ですが、友人同士の共同経営は「絶対に」うまく行かないという意見もよく聞きます。どんなに気心の知れた中の良い間柄だったとしても、経営となるとまた全く別問題だ、というのです。これは残念ながら、的を射た意見だと個人的には思います。もちろん世の中には、この形でうまくやっている人々も存在するのは確かです。きっと少なくともどちらかが、とてつもなくよくできた人なのでしょう。とりあえず凡人は慎重になった方がいいと思います。

何のための独立なのか
 さてここに来てそもそも論なのですが、独立とは何のためにするのでしょう。料理人として腕を磨き、最終目標は独立です、というのは、夢や目標の持ち方としてはとてもシンプルで分かりやすいですが、じゃあその独立は何のため?という話です。
 「一国一城の主人になりたい」というのはまずありますね。以前の回で登場したHくんは「若くして社長になってモテモテになりたい」というのが仕事のモチベーションでした。モテモテはともかく、社長になりたい、トップになりたい、誰の指図も受けない立場になりたい、というのは極めて健全な目標だと思います。ただし、水を差してしまうようですが、ある規模を超えた時の社長という仕事は、精神的に相当キツい仕事だと思います。その役目を引き受けられる人は、少なくとも並大抵ではありません。
 「お金を儲けたい」というのもあるでしょう。被雇用者である限り、収入は上がっても天井がありますが、独立したらとりあえずそれはなくなります。
 と言っても、独立直後はむしろ収入は減る可能性もおおいにあります。知り合いに、独立後もコンビニバイトを続けていた人もいました。私は、それは絶対にやめろ、そんな時間と体力があったら店の売り上げが1000円でも上がる方法を考えろ、と忠告せずにはいられませんでしたが。幸いその店はすぐに軌道に乗り始め、彼はバイトどころではなくなりました。
 飲食業は利幅の薄い商売です。総売り上げの10%も利益が残れば御の字。しかしこれは逆に言うと、そこから売上を伸ばせればみるみる利益が増えるということでもあります。この場合、売上が1割伸びれば、利益は倍とは言いませんが1.5倍以上になるでしょう。2割伸びれば2倍は確定です。実際は利益を10%残すこと自体が至難の業かもしれませんが……。
 個人的には、独立の最大の目的は「理想の店を作るため」だと考えています。社会的ステータスは大事です。お金はもっと大事です。むしろ最優先と言ってもいいかもしれません。しかしその根幹には、この思いがないと、独立にはあまり意味がないのではないかと私は考えます。
 料理人として組織の中で腕を磨き、そしてよその店のことや世の中の様々なことを知り、その中であなたの中にはきっと徐々に「自分にとっての理想の店」の像が浮かび上がってくるはずです。その像は最初はぼんやりしているかもしれませんが、経験を積めば積むほどそれは明瞭になっていきます。成長する中で、時にはその像が変形していくこともあるでしょう。そしてその変形後の像は、おそらくより前よりも良い形になっているに違いありません。
 その像が固まり、これで行けると確信できたら……いや、何が何でもこれで行きたいと明確に思えたら、それが独立のタイミングです。

「理想の店」の作り方
 その時に可能性のひとつとしては、今いる組織の中にいたままで、その「理想の店」が実現できるケースも世の中には案外あります。社内独立とか社内ベンチャーと呼ばれる形ですね。「次の新店は君が好きなようにやっていいぞ」って感じです。「社長」ないし「オーナーシェフ」という社会的ステータスやお金の問題をどう捉えるかにもよりますが、私はこの種のチャンスは逃すべきではない、何なら組織内でそういうチャンスを引き寄せるべく自分から狡猾に立ち回るべき、と考えます。まあ、ここにも絶対的な正解はないわけですけど、そういう選択肢もあるということは心に留めておいていいと思います。 
 何にしても「理想の店」の材料は、あなた自身の技術と経験とセンスの中にしかありません。その材料は多いに越したことはありません。材料が足りていないのに独立を焦るのが、安易な独立です。
 そして現実とはなかなか残酷なものです。理想の店を実現したとして、それがそのままうまくいくとは限りません。その時は迅速に軌道修正が必要ですが、そのための材料もまたあなた自身の中にしか無いのです。
 もしうまくいかなかったらどう方向転換するか、言うなればそんなセカンドプランをあらかじめ想定しておくことも、私は強くお勧めします。こと飲食店に関しては、ひとつのことしかやれない人が独立するほど無謀なことはないと肝に銘じてください。