単行本

懐かしい未来への冒険

藤谷治『睦家四姉妹図』書評

原宿は原宿でも神奈川県は戸塚の原宿で睦家の四姉妹は成長する。ある家族の平成史をお正月の応接間の定点観測から描き出すホームドラマの傑作を、神奈川件は湘南在住の小説家・横田創さんに読み解いていただきました。PR誌『ちくま』2月号より転載。

 言わずもがなのことではあるが、おもしろい小説があればそれはミステリである。ミステリとして読むことのできない小説が読者を魅了する可能性はない。理由は単純である。ミステリではない小説には問い(謎)がないからである。問われてもいないのに話し始め、誰も聞いてやしないのに話しつづける。飲みの席でいちばん迷惑な部類に属する人間(作者)のひとり語りに過ぎないからだ。
 ミステリとしての形式はおおきくふたつに分類される。読み進めるうちに過去(謎)が解き明かされてゆく推理小説型と、未来(謎)が解き明かされてゆく冒険小説型である。『睦家四姉妹図』は小説全体の構成は冒険小説型、章ごとの構成は推理小説型を選択した連ドラ型のミステリ(小説)である。謎が前にも後ろにもあればおのずと読者は魅了される。
 変化を感じ、受けとるには変化しないものが必要になる。観測するたびに装置を変える物理学者などいるわけがない。観測装置は横浜市戸塚区原宿の交差点にほど近い住宅街に建つ一戸建て。実験するのはいつも1月2日と決めている。それが『睦家四姉妹図』という小説(観測装置)であり、観測しているのはわたしたち(読者)である。
 1月2日は八重子の誕生日である。彼女は四人姉妹(貞子・夏子・陽子・恵美里)の母親であり、ちいさいながらも会社を経営している夫(昭)の妻である。八重子の誕生日のお祝いも兼ねて家族が集まるのが睦家の決まり事である。
 読者の視点(固定カメラ)は主に3か所。居間と台所。渡り廊下の突き当たりにある恵美里の部屋に置かれている。居間と台所のカメラは小津安二郎の映画のように低いところ(居間は座卓の高さ、台所は胸の高さ)にあるが、恵美里の部屋のカメラは天井の四隅の1点から俯瞰している。手持ちカメラも使われるが、互いに探り合うような会話は途切れがちで、そらした視線の先で過去の出来事が読者の目(スクリーン)に映し出される。
『睦家四姉妹図』の読者は1月2日にしか読者になる権利を与えられない。それも毎年ではなく数年に1度。親戚でもなんでもない赤の他人であるにもかかわらず、睦家の人間たちが互いに知ることのできない秘密を知る。誰もが問い(謎)を抱え生きている。なにひとつ解決しないまま新しい年を迎える。だがその「新しい年」は読者にとっては懐かしい年なのだ。
 2001年(平成13年)に9・11が起きたことを知らない読者はいない。2011年(平成23年)と聞けばそれはもう3・11の起きた年だ。1995年(平成7年)と聞いてもすぐには阪神淡路大震災を思い出せなかった読者も読み進めるうちに崩れ落ち、焼け野原になった神戸の姿を思い出すだろう。そしてその傷が癒えぬまま経験させられた地下鉄サリン事件の到来を、ヘリコプターから撮影された東京の凍りついた姿と共に思い出すだろう。
 冒険小説としての『睦家四姉妹図』は、懐かしい未来へ向かって進んでゆく。その年、なにが起きるのか読者は知っているが、その出来事によって睦家の人間たちがなにを感じ、なにを思うかは知らない。あらかじめ知ることはできない。冒頭に置かれた家族写真(図)を見ただけで、なんだまだ離婚してないのかとイライラする読者もいるかもしれない。なんであの苗字ではなくこの苗字が次女の苗字になっているのかと驚き、早くその答えを知りたくなりページをめくる。
 小説は語らない。なにも言わずに回る水車のようにただそれは働いている。ミステリとは意味(謎)の灌漑システムである。伝えるのではなく展示する。現代アートと同じ手法(インスタレーション)を選択することでこの小説が可能にしたもの。それは読者の自由である。『睦家四姉妹図』のように読者が主語である小説。それこそがミステリ(小説)である。