昨日、なに読んだ?

File40. 東野圭吾の「献身」ぶりを味わえる本

東野圭吾『レイクサイド』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【横田創(小説家)】→→李琴峰(小説家/翻訳家)→→???

 去年の秋ごろからずっと東野圭吾の小説ばかりを読んでいる。2008年ごろ、谷崎潤一郎の大正期のミステリ(『潤一郎ラビリンス〈8〉犯罪小説集』『潤一郎ラビリンス〈5〉少年の王国』)と、富岡多恵子の短篇小説(『仕かけのある静物』『冥土の家族』『動物の葬礼』『当世凡人伝』『芻狗』『遠い空』)から始まったわたしのエンタメ小説への旅は、松本清張(『或る「小倉日記」伝』『黒地の絵』『張り込み』『駅路』)から宮部みゆき(『火車』『理由』)へとたどりつき、一度昇天。『模倣犯』こそ二葉亭四迷の『浮雲』の誕生以後、日本語で書かれたすべての小説の中で最もドストエフスキーの小説に近づいた作品だという結論に至ったのち(この結論はいまもまだ覆されてはいない)、藤沢周平と吉村昭へ、ちょっと寄り道をしてから高村薫『レディ・ジョーカー』で火傷をするように小説の面白さに触れる。
 また火傷がしたい。そう思っていたわたしに未読の作家の書評の依頼が来た。『愛に乱暴』。吉田修一の小説を読むのは初めてだった。仕事であるのも忘れてむさぼり読んだ。
 水の中に水があるように、小説の中にしか小説はない。読んでいる。そのどこにもない時間だけが小説であることを教えてくれたのは、吉田修一の『東京湾景』だった。
 出会い系サイトを通じて会うことになったお台場ちゃん(美緒)と品川埠頭くん(亮介)が、東京モノレールの車内で出会い損ねそうになったそのとき奇跡が起きる。品川埠頭くんが「俺が住んでるアパートがもうすぐ見える」と言い出すと「このへんに住んでたんだ」とお台場ちゃんが食いつく。「どこ?」「ほらあれ? あの緑っぽい屋根」「え。どれ?」「あれだよ」「あれ?」「そう。あれ」「亮介くん、あそこで暮らしてるんだ」「そう。あそこで暮らしている。もう五年目になるかな」
 モノレールの窓から品川埠頭くんのアパートを見おろしただけで、ふたりはまた会うことになったのである。『レディ・ジョーカー』の前半。グリコ・森永事件をモデルにした犯人たちの生い立ちから、いまの苦境に至るまでを知ったその目で後半で描かれる彼らの犯行を、報道や警察官の視線を通して「読んでいる」の中でした火傷と同じ火傷をわたしはした。「本当にこのまま帰る?」「俺のことタイプじゃなかった?」「だって、そのつもりで来たんだろ?」と執拗にホテルに誘う、盛りのついたオスにしか見えなかった男のその後の活躍をテレビのニュースを通じて知るのと同じ効果が「モノレールの窓からアパートを見おろす」にはあった。
 たとえそう書かれていても、そうであるとは限らないのは、イジメの構造と同じだ。イジメたつもりはなくても、イジメられたと感じる可能性と同じ可能性の中に小説はある。やってもいないのにやったと思われたり、やったのにやってないことにされる。『レディ・ジョーカー』の後半には一文字たりとも犯人たちの心情は書かれていない。だけど読者の耳には、それだけが書かれていた前半よりも聞こえてくるのだ。目をならぬ耳を覆わんばかりの悲痛な叫び声が最後の一行を読み終えるまで聞こえつづける。
 吉田修一の『悪人』は、最初から「読んでいる」の中で書かれている。あらかじめ読者の目の中で撮影され、編集された映画である。読者の目を通してしか見えない風景を、読者の目の前で、いまそれが初めて描かれたように描く。生まれて初めてのアメリカ旅行。サンフランシスコからの帰りの便の飛行機の中で『64〈ロクヨン〉』を観ながらわたしは、吉田修一の『悪人』を思い出していた。この映画の原作も、最初から「読んでいる」の中で書かれているのではないか。それどころか映画化されて「観ている」わたしたちの目の中で書かれている。そんな気がしたのだ。その予感は見事なまでに的中した。

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