キッドのもと

もうひとりの浅草キッド

ちくま文庫『キッドのもと』解説

8月のちくま文庫『キッドのもと』に寄せられた、宮藤官九郎さんによる解説「もうひとりの浅草キッド」を公開します。青春時代、同じくビートたけしに多大な憧れを抱きながら、別の道を歩んだ宮藤さんの浅草キッドへの想いとは。

 ♪おまえと、あ〜った、なか〜ぁみぃせのぉ〜
 毎週木曜(日付は金曜)の午前二時五〇分過ぎ、かすれた歌声を聴きながら、ああ、今週もハガキ読まれなかったなぁ、やっぱ俺より面白いヤツなんて日本中にごまんといるんだなぁ。悔し涙で枕を濡らした、あの名曲のタイトルをそのままコンビ名に冠した二人。
 浅草キッドは僕にとって、ずっと嫉妬の対象でした。
 本書を読んで、その思いはますます強くなりました。

 天才ビートたけしに憧れ、有楽町ニッポン放送前で出待ちして弟子入りしよう……と考えた所までは、ほぼ一緒なんです。
 年齢こそ玉さんとは三歳、博士とは八歳違いますが、同じ時代に同じものを見聞きし、心を熱くしていたのは間違いありません。 そこで一歩を踏み出したお二人と、思い止まった俺。
 なにが違ったんだろう。
 モヤモヤを抱えながら、お二人が辿った輝かしい道の横を人知れず併走していた十六
歳の僕のことを、ちょっと書いてみます。

 一九八六年。お二人がそれぞれ殿の追っかけを始めた年、僕は地元の男子校に入学し、カバンにハガキを入れて持ち歩き〝マヌケなものコーナー〟や〝ああ、人違いのコーナー〟に投稿するハガキ職人でした。記憶が正しければ、その年に入ってすでに四、五回ネタを採用された筈ですが、ペンネームを変えて送ってたので注目されるには至らなかった。それでも「くっだらねえなあ」や「バカだなあ」が最高の褒め言葉であることを学んだ十六歳の僕は、それなりに本気で、たけし軍団に入りたいと思っていました。天才ビートたけしだけが、俺をこのパッとしない現実から救い出してくれると信じて疑わなかった。カレンダーの八月のある木曜日に『上京』『有楽町ニッポン放送』と書き込み、青春
18きっぷを買うまではやった。が、列車には乗らなかった。

 そんなヤツ、掃いて捨てるほどいたでしょう。当時たけしさんは絶大なる人気を誇っていたし、その威光もあって軍団の皆さんもキラキラ輝いていた。あの夏、もし勇気を出して上京してたらどうなってただろう。博士や玉さんと共に入門した五人の中に僕も入ってたのか。浅草キッドブラザースの一員としてフランス座で修業していたのでしょうか。

 ちなみに、それから二十九年後の二〇一五年。『おしゃれイズム』にゲスト出演した
際、番組スタッフが粋なことをしてくれました。
「もし宮藤官九郎が軍団に入ったら、どんな芸名をつけますか?」と、恐れ多くも、天
下のビートたけし氏に訊いてくれたのです。
「やくみつゆ」
 それが殿の答えでした(実際にはもっと沢山あったのですが割愛します)。嬉しかった。やくみつゆ。改名しようとさえ思った。そしたら殿は「本当に変えちゃったのかよ、バカだなあ」と笑ってくれたかも知れない。しかし『あまちゃん』の作者が突如やくみつゆに改名したら戸惑う人が大勢いる。しかも中村勘三郎さんからの「あなたも官三郎におなりなさいよ」という誘いを断っといて、やくみつゆ。ないよなあ。ないない。ごめんなさい。ここでもやはり「玉袋筋太郎」「水道橋博士」という名前を二十年以上も名乗っているお二人には到底敵わないのです。

 再び遡って一九八六年。結局のところ十六歳の僕は家出する度胸もなく、もたもたしてたらフライデー襲撃事件が勃発し、弟子入りのチャンスを逃してしまった。お二人がフランス座で修業をしていた頃、僕は乗り遅れたような気分で、それでも木曜深夜はラジオの前に座り続けた。半年間、あの手この手で殿の不在を埋めたのが、高田文夫先生でした。
 放送作家になろうかな。ぼんやりと考えた。強烈な個性もセンスもカリスマ性も影響力も、たぶん俺は持ち合わせていない。だけどカリスマのブレーンとして、その〝強烈な個性〟の傍にいれば、生涯笑って暮らせるんじゃないか。その理想型が、『ビートたけしのオールナイトニッポン』における高田先生でした。日本大学芸術学部に入ったのも、中退して大人計画の文芸部に入ったのも、結局は十六歳でたけし軍団に入り損ねた口惜しさに突き動かされたんだと思います。当時、お笑いと密接な関係にあった小劇場。虎の穴の入口で挫けた若者が下北沢へ向かうのは必然でした。大人計画の松尾スズキという〝強烈な個性〟を、演出助手としてサポートしつつ、俳優の真似事を始めました。コントを書いたり、ちょこっとテレビに出たり、バイト始めたり辞めたり。松尾さんに頼りにされる、劇団で必要とされる自分を誇らしく感じた。要するにちょっと鼻にかけていたんだと思います。

 一九九一年秋、僕はその鼻を思いっ切りへし折られました。
 北沢タウンホールで開催された『高田文夫杯争奪OWARAIゴールドラッシュ』。ビバリー昼ズのリスナーだった僕はチケットを買ってその客席にいました。浅草キッドの名前は無論知ってましたが、ネタを見た事はなく、何となく軍団の下っ端という印象で、過小評価していました。

 その夜、二人の漫才は神がかっていました。その瞬間その場で起こりうる笑いの総量を全て食い尽くす勢いでした。ネタは覚えていません。そもそも大半は笑い声で聞き取れなかった。激しく嫉妬しました。大きな笑いが生まれるごとに舞台が遠のいて行くような、自分だけ置いていかれるような感覚を味わいました。
 俺、なにやってんだろう。
 打ちひしがれ、うな垂れて歩く夜の茶沢通り。どうすんだよ。演劇なんか大して好きでもなかったくせに。たけし城と元気が出るテレビばっか見てたくせに。大学もドロップアウト寸前だし。今さら芸人を目指しても彼らの足元にも及ばないぞ。放送作家になるための具体的な方法も見つかってないし。どうすんだよ。

 以来、浅草キッドのお二人に対して一方的にコンプレックスを抱くようになり、それだけが理由じゃないんですが、次第にお笑いの世界からも距離を置くようになりました。ちょうど、たけしさんも映画界の巨匠になられ、駆けだしの僕は『キッズ・リターン』にカツアゲされる高校生の役で出演。憧れの殿とニアミスするチャンスにも恵まれましたが、やはり自分は、弟子入り未満の男だという負い目から、常識的な距離を保ってしまった。その頃、本書によるとお二人は、例の免許証を使ったギャグ(笑いました)で半年間の謹慎を余儀なくされていたようです。僕は二十六歳で、ようやくコント作家の職にありつき何とか食えるようになった頃です。

 二十年の時が経ち今年二〇一六年。知人から「博士がTwitter で『ゆとりですがなにか』を褒めてます」という情報が入りました。「『TOO YOUNG TO DIE!』も見たそうです。褒めてます」「今さら『あまちゃん』も褒めてます」。そしてご自身がコメンテーターを務めるMXテレビ『バラいろダンディ』に呼んで頂きました。
 図らずも、この解説を書いている最中で、僕の中で『浅草キッド』がトレンド入りしているタイミング。玉さんとはロケ番組『シロウト名鑑』にご出演頂くなど接点がありましたが、博士とは初対面。面と向かって褒められ、しかもその言葉がいちいち的確で、その褒め言葉を褒めたいと思いました。
 そして、これまでつまらない嫉妬心から目を背けて来たお二人の輝かしい経歴を改めて見ると、弟子入り志願(僕は未遂ですが)以外にも共通点が多く、例えば博士の実家が紙屋──うちは宮藤紙店という名で商売をしていた文房具店です──とか、たけしさんにネタや企画書を書いて渡した──僕は高校時代に、やはり放送禁止用語だらけのコントを、高田文夫先生に手渡しました──とか。
 第二章以降は、もし十六歳でビートたけしに弟子入りしてたら、という疑似体験記として読むことが出来ました。そして、たぶんフランス座での修業に耐えられず逃走していただろうなと思いました。そんな予感がしてあの日、僕は思い止まったんだろうなと。

 結局のところ、僕は逆立ちしても浅草キッドにはなれなかった。あの時代、ツービー
トの後継者というポジションに憧れた若者が全国に何万人いたか知りませんが、その夢
を成し遂げた、水道橋博士、玉袋筋太郎による『浅草キッド』は、「そんな時代もあっ
たね」と「グラス傾け懐かしむ」ようなセンチメンタルな関係には決して落ち着かず、
今なお快進撃を続けている。その理由が本書を読んでつぶさに解りました。畏怖と嫉妬
を交互に感じつつ、僕も力尽きるまで脇道を併走しようと誓いました。

 以上、やくみつゆでした。

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