ちくまプリマー新書

なぜ「学校教育は役に立つか」が議論になるのか

『学校の役割ってなんだろう』本文一部公開

忙しすぎる教員、求められることが多い学校、役に立つ教育の要望――困難に直面する学校は、何のためにあるのか? 好評発売中の『学校の役割ってなんだろう』(ちくまプリマー新書)の第四章より、本文を一部公開します。学校が社会的にどういう形で役立っているのか、社会科学ではそれをどう説明するのでしょうか。

学校の経済的機能を捉えなおす

 第三章までで、学校教育の成り立ちや組織的特徴と、近年学校が直面する問題について説明してきました。学校教育がここまで私たちの人生に組み込まれ、当たり前と言える存在になるには、何らかの必然性があったと考えられます。つまり学校があることで私たちは実益を得ている、社会に役立っている、だから学校は存在しているのだ、というわけです。それについて考えてみましょう。

 生活上必要な知識を身につけることは不可欠ですし、学校教育でそれが可能になるなら、学校教育を受けることでメリットを享受できます。社会にとっても、学校教育が個人の適性を見出し、また才能を伸ばして適材適所に人材を配置できれば、世の中が円滑にまわり発展が促されるメリットがあります。教育を受ける人が増えれば、高レベルの知識や技能をもつ人々が社会全体にストックされるので、社会的資源となり、また活力の要因となります。

 近年はどんどん科学技術も発達しています。ですから、社会で要求される知識や技術の水準は高まっていると考えられます。その変化に対応するには、上級学校に進学して、高いレベルの教育を受ける必要があります。そう考える人が増えれば、進学需要も伸びます。かくして、学校制度はどんどん拡大していきます。

 以上の説明は、一般の人々が暗黙のうちに教育に抱くイメージや期待感に近いものだと思いますが、これは学問的に機能主義という立場と一致します。

 機能主義の中で、所得の増加のような経済的メリットを強調したものを人的資本論といい、ゲーリー・ベッカー(一九三〇〜二〇一四)によって体系化されました。この立場に立てば、教育を受けた人が知識・技能を社会に出て活用し、社会の発展に寄与するので、教育支出は社会的投資と見なせます。学費を払って進学するのは、その時点では支出ですが、そのおかげで就職し高い所得を得られれば、支払った学費や、進学によって放棄した就業機会に基づく所得(いわゆる機会費用)も取り返せる上に、さらに収入を増やすことも期待できます。だから支払う教育費も、一種の投資と見なせます。

 一般的には高い教育を受けることで、生産性も高まると期待できます。つまり、教育によって合理的に、効率的に仕事をこなすための考える力が身につくとか、実際に使うのが難しい器具や機械を利用するスキルが身につきます。結果的に、教育を受けていない人に比して、受けている人の方が、同じ時間や労力を費やした場合、多くの成果を生み出せると予想できます。

 成果が増えれば、所得の上昇も期待できるでしょう。政府からすれば、所得上昇で税収増を期待できます。だから人的資本論に立てば、政府が教育に支出(投資)することは正当なのです。

経済面に限定されない学校の社会的機能

 人的資本論の説明は、教育を経済的な価値から意義付けようとします。ただ、教育の意味は必ずしも経済的な価値だけに還元できるわけではありません。教育を知育に限定せず、情操教育やしつけ教育、徳育なども含めれば、さらに広く社会的な意義を説明できます。

 特に受験競争が激しかった時代、日本の教育は受験対策一辺倒、点数主義などと批判されてきました。ただ学校現場から見れば、それはあまりに一面的な見方です。学校生活は授業だけで成立しているわけではありません。様々なイベントが用意され、それに向けて子どもたちが共同して準備します。クラブ活動や部活動、児童会・生徒会活動もあります。

 学期の初めにはクラスの中で各種の係や委員を決めて、その持ち分の役割を責任もって果たすことも求められているでしょう。給食や清掃も、教育的な意味が込められています。佐藤秀夫(一九三四〜二〇〇二)によれば、学校の清掃にもともと教育的意味はなく、財政的に清掃員を雇うことができなかったので、仕方なく生徒にやらせるようにした、というのが始まりらしいのですが、今は清掃も何らかのもっともらしい教育的な理由をつけて正当化されているでしょう。

 知育に限定すれば、同じ教室空間にいなくても、参考書のほか、新しいテクノロジーを利用すれば自学自習は可能です。ただ学習面以外の生活指導を、家庭や地域社会、他の私的なサービスに頼ろうとすれば、社会的な支援や準備が必要で、何よりコストがかかります。現状では、学校以外の場所で、誰もが享受できるこうした場をつくるのは非常に難しいと思います。

 つまり学校活動を通して、共同体の中で他者と協働して何かをやり遂げること、社会は様々な役割の人々から構成されており、そのどこかが機能不全に陥ると共同体の存立が難しくなること、それゆえ相互扶助の精神が必要になることなどを学ぶことが目指されているわけです。

 また教育が与えた知識をもとに、人々の意識が高まり、社会全体の生活水準が改善されることも考えられます。わかりやすい例をあげれば、現在COVID-19 が感染拡大していますが、どういった行為が感染拡大に結び付くのか、ワクチンの効用やマスク着用の重要性(それは自分のためのみならず、他者、社会全体のためでもある)など、健康に対する意識を向上させる可能性があります。

 それ以外に、日本の学校では、身体計測や様々な健康診断、予防接種のほか、機会があれば様々な公衆衛生、防災、交通安全などに関する知識の付与も行われています。これらが、小さな頃から学校を通してすべての子どもに実施されていることの社会的メリットは、軽視すべきではありません。

 以上の話は、聞けばもっともだ、と感じるでしょうが、実証的に証明することが困難です。人的資本論の場合、所得のように明確に数値化できる形で教育の成果を測定し得るので、研究蓄積は経済学を中心に多数あります。ただ、数値化できない曖昧な話を、客観的に示すのは容易ではありません。

 またこうした見方に対する反論も予想できます。今は世界的に見ても、学校教育が過去にない水準で普及しています。だとすると、今を生きる人々は、過去のどの年代の人よりも、社会の仕組みを理解し、民主主義的な共生社会がもっと根付き、非科学的な言明に対する批判精神が強まっていてもおかしくないですが、世界ではそれに反するような動きも広がっています。

 インターネットや、それを利用したSNSがここまで発達するのは予想できなかったかもしれません。しかしフェイク・ニュースに惑わされ、意見の異なる人々の見解を受け入れられない(エビデンスを示しても全く耳を貸さない)事例もよく見られます。この現象と学校教育拡大の関係をどう捉えるべきか、またこの問題が学校教育により一定程度解決できるのか、という重い課題が突き付けられています。


 

勉強はもちろん、進路指導や生活指導も欠かせない。
社会に出るための基礎も教わる。問題が起きれば対処しなければ。
さらに多様性や個性も大切。しかも誰もが一過言ある。

思ったよりも課題は複雑。