ちくま学芸文庫

無心で読むことの素晴らしさ
保苅瑞穂著『プルースト読書の喜び』解説

傑出したプルースト学者であり、また高雅な文章で知られた保苅瑞穂。その文業的達成とも評される『プルースト 読書の喜び』がこのほど文庫化されました。本書の特質や著者の人となりについて、フランス文学者の野崎歓氏が解説を寄せてくださいました。

「学者」として、「子供」として

 高校生のころ、保苅瑞穂は英語の授業で習ったワーズワースの詩「水仙」に心を惹かれた。そして大学に入ったら英文科に進もうと考えていた。だがプルーストの小説と出会い、仏文を専攻することにしたのだった(『ポール・ヴァレリーの遺言』2022年の記述による)。
 それ以来六十余年にわたり、保苅はフランス文学の研究に打ち込んだ。そしてプルーストはもとより、モンテーニュ、ヴォルテール、ヴァレリーといった大作家たちについて素晴らしい本を書いた。18世紀のサロンの名花と謳われたレスピナス嬢の人生にも一巻を捧げている。
 いずれもが、フランスの文学と文化に対する学識に支えられた確固たる研究成果である。 ルネサンスから現代にまで及ぶ、かくも広い視野と濃こまやかな読解力を兼ね備えたフランス文学者は、ほかにあまり思い浮かばない。しかも保苅の著書は研究や評論の枠を超え出て、それ自体が一読、感嘆を誘われずにはいられないような美しさを湛えた作品となっている。その秘密は何といっても、みずみずしく澄み切った文章にある。扱っている対象についての知識や理解を深めさせてくれるばかりではない。どの本も、名文に触れることの幸福をつくづく味わわせてくれるのだ。
 専門とするプルーストに関しては、『プルースト・印象と隠喩』(1982年)、『プルースト・夢の手法』(1997年)、そして本書(2010年)がトリロジーをなしている。前二冊では、ジェラール・ジュネットやミシェル・フーコーなど、現代思想・批評の動向を踏まえながら、精密にして知的刺激に満ちた分析が展開されていた。それが本書に至ると、著者はいわば自らを解き放ち、自分がプルーストの作品からどのような愉悦を受け取ったかを直接、読者に語り聞かせる。『失われた時を求めて』を熟読玩味することがどれほど「豊かな時間」の体験となるかを、身をもって示してくれるのだ。
 冒頭の一文「読者に」から、そうした構えがはっきりと浮かび上がる。子供時代のほほえましい思い出から語り起こして、本とは決して周囲の世界から切り離されたものではなく、むしろ読書をとおして「外の世界が感覚に沁みこんで来る」のだと保苅は説く。もし学者たちが、書斎での読書を「学問に必要な別のもの」と考えるなら、「学者たちは本当の意味での読書をしていないだけの話である」。そして保苅はいう。「かれらは残念なことに何かに気をとられて、子供がわれを忘れて本に読み耽る、あの無心さを失っているのだろう。」
 すぐれた文学作品と向かい合うとき、この「本当の意味での読書」こそが肝心なのであり、また作品はそれだけを読者に求めている。そうやって身も心も捧げて読むときにのみ、本とわれわれとのあいだに真の交流が生まれ、豊饒な何ものかがもたらされる。それはプルースト自身がエッセイ「読書の日々」に記していたことでもある。
「序にかえて」の副題をもつ第一章では、そうした読書論がのびやかに展開されていく。論文執筆に難渋したパリでの留学生時代を振り返って保苅はいう。それでもなお自分にとっての根拠となったのは、プルーストを読んでいて不意に覚える「新鮮な驚き」であり、「プルーストの言葉の力に打たれた」ときの「声を上げたくなるような幸福感に満ち」た感覚だった。
「本を読むということに知的な理解が必要なことは言うまでもないことであっても、それよりもっと必要で、豊かなものはこの喜びの感情なのである。だから本との付き合いでは、研究というきまじめな付き合いも含めて、すべてがそこに始まり、そこに終わるはずではないだろうか。」
 そんな思いを抱いて保苅が描き出すプルースト像は、作家にまつわる通念を喜ばしく書き換えるものだ。それは「学者」でありながら「子供」のように目を見開いて読む気持ちを忘れない保苅だからこそつかみとることのできたプルーストの姿である。


再創造への道  

 保苅がまず指摘するのは、プルーストの小説には「自然な流れ」がつねに保たれているということである。長大さや構成の複雑さにひるむ必要はない。「こころを空しくして、繰り返し読む」姿勢さえあれば、その流れにおのれを浸すことができる。というのも──これが保苅のプルースト観の核心的部分だと思われるが──プルーストの企図はどこまでも「生命を忠実に表現しよう」ということだったからだ。
 彼は作家としての特異な能力を発揮して無からの創造を果たそうとしたのではない。反対に、彼にとってすべてはすでにあった。対象はあまりにもいきいきと充実した命を宿して、彼の眼前に、あるいは記憶のうちに、書くことに先立って「立派に」存在していた。鍾愛の作家ジェラール・ド・ネルヴァルを論じた感動的な文章で、プルーストが「人は薔薇が薔薇であるのを見て、泣きたいような気持になるのだ」と語っているのはまさにそのことをさす。プルーストは「対象がもつ生命の感覚」をあまりに愛した。だからこそそれを何としても「言葉に転換」しようとした。つまり彼にとって創造とはすなわち「再創造」なのであり、「薔薇が薔薇である」という単純さに回帰していくための果てしない努力の連続なのだった。もしそこに「難解さ」があるとしたら、それはそうした生命の感覚──あるいは「生命の真実」──に遡及していくことが、ひとがふだん用いているのとはまったく異なる言葉の用い方を要求したからであり、言葉が常套を脱して生動しなければならなかったからだ。
 その言葉のありさまをどうとらえることができるのか。保苅は有名な「プチット・マドレーヌ」の挿話を引いて、動詞の時制の問題を詳しく検討している(「Ⅱ 水中花のように」)。フランス語と縁のない読者に向けて説明する口調の優しさが、保苅先生はきっととても温厚な教師だったのだろうと思わせる。本来フランス語で読んでしかわからない事柄が、日本語で納得のいくように記されている。しかも「複合過去」の用法をめぐっては、『失われた時を求めて』にカミュの『異邦人』が対置され、後者の「息づまるような語り」の秘密まで教示してもらえるのだ。
 あるいは、「スワンの恋」の中でピアノとヴァイオリンのソナタが聞こえてくるくだりの分析にも唸らされる(「Ⅲ 音楽あるいは魂の交流」)。ピアノの音が「ひたひたと打ち寄せる水音になって浮かび上がろうとして」という表現がなぜ「いま読んでもぞくっとする」ほどの効果を 上げているのかを、著者は解き明かしていく。一語一句をゆるがせにしないテクスト読解のお手本である。
「ひたひたと打ち寄せる水音」というのは、いかにも日本語としてこなれているが、「ひたひたと」に対応するフランス語があるのだろうかと訝しく思う向きがあるかも知れない。だが保苅も述べているとおり、原文のclapotement はフランス語でも擬音語に由来するのであり、ヴァイオリンの響きにひめやかに加わるピアノの効果を表すうえで、この訳語の選択は絶妙といえる。そうした吟味を経て織りなされた保苅の訳文をとおしてプルーストの作品に触れることが、本書の大きな魅力の一つとなっている(凝り性の読者であれば、他の訳者による訳文と比べてみるのも一興だろう)。ここにあるのは、翻訳を介して読み解きながら、日本語でプルーストを「再創造」する試みなのだ。
 訳文の練り上げに先立ち、長大な作品のどこを抽出してくるかが重要な意味をもったことはいうまでもない。「Ⅳ 夜明けの停車場」では、主人公が初めて海辺の保養地バルベックを訪ねたときの、汽車の中での目覚めの場面が取り上げられている。「日の出」と「かたゆで卵」が共存する心楽しい一節が紹介されたのち、連想のおもむくがまま、川端康成の『雪国』や映画『夜行列車』、ホメロスの「あけぼのの女神」やランボーの「夜明け」へと話が広がる。ペダンチックな嫌味を少しも感じさせないところに、著者の高雅な人柄がしのばれる。丁寧な解説によって、プルーストの夜明けの独自性が「ものの見方と構成法」にあることが腑に落ちる。そしてまた、この作家の小説ならばどこを切り取ってきても、そこにはきっと再読三読に値するだけの言葉の拡がりがあるはずだと改めて思わされる。


「われわれと同じ人間」  

 美術にも造詣の深い保苅の選び出す名場面は、しばしば「薔薇色」や、あるいは「青」にまばゆく彩られいて、その輝きにうっとりとさせられる。しかも抜粋の積み重ねをとおして、長大な小説をつらぬく大きなストーリーが浮き彫りになる。アルベルチーヌとの出会いと「死を寄せつけない生命の横溢」の体験(「Ⅴ 海と娘と薔薇の茂み」)、そして大切な祖母の臨終(「Ⅵ オルフェウスの叫び」)から語り手の痛切な追慕(「Ⅶ 春の驟雨」)へと辿っていくとき、これが人間の生と死に正面から向かいあう物語だったことが胸に迫ってくる。そして、あらゆる人間に共通する事柄を扱って「目を洗われる思い」をさせてくれる作品であることが納得できる。これは日常の中で人生がわれわれにもたらす印象とはこういうものだったのかと「開眼」させてくれるような瞬間に満ちた小説なのである。保苅の説明に耳を傾けよう。
「芸術に関してそういうことが起きるのは、芸術家の感覚がどんなに精緻、あるいは独特 であっても、根本的にはかれらがわれわれと同じ人間であることが前提にあるからであって、そうでなければ、それまで見たこともなかったような画風の絵に魅せられることも、精緻な感覚の表現を複雑な構文に託したプルーストの文章を素直に受け入れて、それに感動することもあり得ないはずである。」
 これはもちろん、プルーストの偉大さを相対化したり低く見積もったりしようとして言葉ではない。われわれとまったく同様に生と死の圏内にあって文章を紡ぐかぎりにおいて、天才もわれわれの隣人なのであり、彼我のあいだにむやみに隔たりを想定する必要はない。そうした考え方は、「私は、文学作品のいっさいの素材とは、過ぎ去った私の人生であるということを理解した」という、『失われた時を求めて』最終部の言葉とも響きあう。保苅の分析はこのうえなく明快だ。
「要するにこれは、文学が人間の生活と一続きに繋がっているということである。そこが重要な点であって、この一節はそれを主人公の述懐を通して、じかに語った部分である。」


二分法を抜け出して

 当然至極の解釈だと思われるだろうか。しかし、プルーストにまつわる批評的ステレオタイプをするりと抜け出す身ぶりをそこに見て取って、はっとする読者もいるはずだ。作者が主人公を介して「じかに語」ることなどありえないと考えるのが、テクスト論の基本とみなされるようになって久しい。文学は実人生とは別個のものであるとか、作品を作者に還元することは許されないといった態度が当然のこととされてきた。プルースト自身、『サント= ブーヴに反論する』で、作品を創造する「自己」と社会的・社交的な「自己」の峻別の必要を主張したのは確かである。
 だが、二分法を絶対視し、さらにバルトのいわゆる「作者の死」を金科玉条のように振りかざすとき、文学と人生=生活(いずれもフランス語ではla vie、つまり「生命」)は高い壁で分断されてしまう。保苅はそうした二分法に従おうとはしない。それは保苅が自らの読書体験、プルーストとのつきあいに基づいて、文学は「生活と一続きに繋がっている」、そうでなければ文学を読むのは空しい営みになってしまうと確信していたからだ。そして、批評的言説の切れ味に眩惑されて「こころ」の次元が失われかねないことを恐れていたからだ。「虚心に読んで感じたことを、より明確に意識するように努めることのほかに、読書の王道はないのである。」
 その道をひたすら、誠実に歩むとき、プルーストの作品はわれわれの生にとって親密な、かけがえのないものとなるだろう。老いと死の主題に対する保苅の考察はとりわけ迫力に満ちている。ボードレールは老女たちを「人間の残骸」として冷酷に観察しながら、その姿に無限の「尊厳」を与えた。レンブラントは自らの老母の歯が欠け、皺が寄った顔を凝視して偉大な肖像画を描いた。彼らを深く尊敬するプルーストもまた、「愛や憐憫の情では達し得ない」「表現の深さ」に達したのだと保苅はいう。愛する者たちの死と、それによって引き起こされた精神の危機を描くくだりで、プルーストの作品は驚くべき深淵に踏み込んでいく。保苅の導きによってそこに降り立つとき、読者は言い知れぬ戦慄と感動を覚えるにちがいない。そしてオルフェウス的な冥府下りが、「再創造」への階梯となったことを理解するのである。
プルースト自身の「死」に対する姿勢を論じる結末部分に至っても、保苅の語り口に余計なパトスは少しも混じらない。むしろ晴ればれとした喜ばしさがみなぎっていることに感服し、励まされる。「われわれがプルーストを読むたびに、かれの本にあらたな命が通う」──その言葉の正しさを、本書はみごとに証しだてている。

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