ブラッドランド

手を携えて歩むために

ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、バルト三国。西欧諸国とロシアに挟まれたこの地で起きた人類史上最悪のジェノサイド。旧ソ連体制下で歪曲・隠蔽されてきた事実を掘り起こし、殺戮の全貌を初めて明らかにした歴史ノンフィクションがついに学芸文庫に入った。今日の世界で『ブラッドランド』をどう読むべきか? 文庫化に際し、訳文にあらためて向き合った翻訳家の布施由紀子さんに、現在の思いを綴っていただいた。(PR誌「ちくま」12月号より転載)

 2015年に翻訳出版されたティモシー・スナイダー著『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』が、このほど著者あとがきを加えた新版の学芸文庫としてお目見えする。実質的にはこの春本国アメリカで出版された改訂版ペーパーバックの翻訳だが、本文自体の内容に大きな変更はない。

 著者のスナイダー氏は中・東欧史を専門とするイェール大学歴史学部の教授。学生時代はいつか外交官として軍縮交渉に携わる日を夢見てロシア史を専攻していたが、1989年、ベルリンの壁崩壊とともに東欧の共産主義が終焉を迎えたことに感動し、大学院ではポーランド史を研究テーマに選んだ。その後、英国オックスフォード大学の博士課程に学んで東欧地域への理解を深め、歴史研究の道を志すにいたったという。

 博士号取得後は東欧諸国の歩みをテーマとする研究に取り組んだ。そして戦時の民族浄化について調べるうちに、スターリンとヒトラーが同時に政権についていた1933年から45年までのあいだに、独ソ両国にはさまれたこの広大な地域で、彼らが(戦闘とは別に)特定の民族や集団を標的にした大量殺人政策を何度も重複して実行していたことがわかってきた。

 そこでスナイダー氏はこの地域──現代のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア、ロシアの一部──を「流血地帯(ブラッドランズ)」と名付けて調査に乗り出した。数年かけて各地の公文書館をまわり、地域ごとの資料とドイツや旧ソ連の資料を突き合わせて読み込んでいった。その結果、前述の12年間に独ソ両国の政策によって殺害された民間人、戦争捕虜の総数が1400万人以上にのぼることを突きとめた。このなかにはスターリン政権による人為的飢饉の犠牲者330万人、大テロルの犠牲者30万人、独ソの同時侵攻により国家を奪われ殺害されたポーランド国民20万人、ナチス・ドイツが故意に餓死させたソヴィエト人捕虜やレニングラード市民など420万人、さらにホロコーストの犠牲となったユダヤ人540万人などがふくまれる。受けとめきれないほどの人数だが、スナイダー氏はそのひとりひとりの生と死に思いを馳せながら、研究成果を一冊の本にまとめあげた。原著が2010年に刊行されると、国境で分断されてきた地域の歴史を掘り起こした試みとして、たちまち世界各国で注目を集め、いまもなお33カ国で読み継がれている。

 とはいっても、殺戮に次ぐ殺戮の記録である。訳すのはつらくなかったですかと、よく聞かれる。翻訳中はそうも言っていられないので、原文どおりに訳すことのみに集中して粛々と取り組んだが、訳文を読み返すときにはいつも、あるユダヤ人少年のエピソードを書いたくだりで感極まって泣き崩れてしまう。ベラルーシで捕らえられたその男の子は、ガス室を備えた車へ引き立てられていく途中、毅然としてドイツ人にこう告げる。「お願いがあるんだ、おじさん。ぼくたちをぶたないで。ちゃんと自分でトラックに乗れるから」

 なんとむごいことをしたのだろう。人類はなんと愚かだったのだろう。もう二度とあのような過ちを犯してはならない。誰もがそう思いながらこの本を読み終えるはずだ。しかしロシアはまたもや大義のない戦争をはじめ、ウクライナの国土を血に染めている。本書を読めば、プーチン氏のふるまいがときにヒトラーやスターリンのそれと酷似していることに気づいて震撼させられる。同時に、ウクライナの人々がなぜあのように結束して抵抗を続けられるのか、隣国ポーランドの人々がなぜあそこまで強い連帯を示して支援の手をさしのべているのかが理屈抜きで理解できる。今度ばかりは彼らを「はざま」に置き去りにしてはならない。国際社会は手を携えて、彼らとともに歩む道を模索しなければならない。そういう思いを新たにさせてくれる本でもある。

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