単行本

失われるもの、溜まるもの
野々井透『棕櫚を燃やす』評

第38回太宰治賞受賞作、野々井透(ののい・とう)「棕櫚(しゅろ)を燃やす」が、書き下ろし1篇を加えて単行本になりました。姉妹と父、3人の家族を描いた受賞作について、作家・エッセイストの平松洋子さんの評を掲載します。(PR誌「ちくま」4月号より転載)

 

 両手ですくい上げた砂が指のあいだから落ちるのを見るとき、少なからず混乱する。
 さらさらと落ちながら存在を失ってゆく砂。
 手の下で溜まり、量を増してゆく砂。
 喪失と始まりがいちどきに、しかも連続的に自分の手を介して進行する感覚はいつも奇妙で、おぼつかない心持ちにさせられる。
「棕櫚を燃やす」が手渡すのは、たとえばそのように終始揺れ動く不安定な感覚だ。刻一刻と失われる気配が漂っているのに、いっぽう、たしかに滞留するものがある。とはいえ、沈殿でも、澱や淀みでもない。読み進むうちに溜まってゆくのは、芽吹いた木の芽のように清らかでうぶなもの。なんだろうそれは。手探りしながら、正体を探したくなる。
 ひと組の三人家族をめぐる時間の連なりの物語。父、姉の春野、妹の澄香。「たべものをいくら食べても痩せてゆく不思議なからだとなった」父は、どうやら深刻な病を得ているのだが、症状や苦が直截に説明されることはない。春野にしても、左胸を押さえる父の姿を見て、「シャツの下で、稚魚が素早く跳ねたように」感じて怯えたりする。診断を下す病院の医師は「白衣のひと」、余命は「いちねん」、病状の進行は「変容」……表現は、あくまでも迂遠。いったん包み込んだうえで語られる物語はうっすらと霞をまとう。
 妹の澄香の存在が、一家の心棒である。美大を卒業したあと職を転々とし、いま清掃の仕事に就いている澄香は、父があと「いちねん」と判明したのち、唐突に姉に告げる。
「春野、これからの一年を、わたしたちはあまさず暮らそう」
「あまさず暮らす」とは何を意味するのだろう。どのように生活を営めば、あまさず暮らすことになるのだろう。妹の言葉を掌にのせ、とかく受け身になって生きてきた春野はしきりに考えを巡らせる。土鍋で米を炊きながら。夏、三人で出掛けた梁で鮎を食べながら。すき焼きの肉を卵にからめながら。食後に茶を啜りながら。家族を家族たらしめるのは、同じものを食べる行為なのだ。台所に立つ、食卓を囲む、咀嚼する、味わう、腹が充ちる、片づける……いずれの行為にも曖昧な要素が介入せず、どこか泥臭く、生命の根源に抵触している。だから春野は、土鍋で米を炊いたとき、「明日も明後日も、蓋を開ける瞬間がずっと続けばいい」と思い、土鍋に入ったひびを手入れするように日々を過ごしたいと願う。そもそも家族は、この世に生まれ出た瞬間を共有する者同士の分かちがたい共同体だ。
 一家には、永遠の不在があった。「しろい手」として語られる、現世にはいない母。「あなたたちの母親を壊したのは、私かも知れない」と懺悔する父は、しかし、日を追うごとに「薄く」なり、つまり容態が悪化してゆく。
 三人ともに寄り添いながら「あまさず」暮らそうとする家族は、俗世と切り離された聖性を獲得するかのようだ。ついに父は、食べものを摂ることもできなくなり、皮膚から乾いた白い粉が剥落し始める。
「父は今、性別を超越し、時空さえも移動できるのではないかと思わせる、特別な父へと変貌を遂げていた」
 命の灯火が少しずつ、少しずつ痩せ細るさまが描かれるほど、家族の周辺には清らかでうぶな気配が増幅してゆく。
 ところが読後、奇妙な映像が浮かぶ。聖なる家族像を打ち破って現れるのは、ぼうぼうと棕櫚が燃える苛烈な火の場面であり、春野の皮膚の下を巡る「体温に似たぬるい温度のむるむる」の不気味さである。聖と俗。あるいは、エロスとタナトス。庭で燃え上がる乾いた棕櫚の官能的な赤は、家族をなす者たちにとっての業火だろうか。作者の内部で蠢くイメージは周到だ。
 本書には、書き下ろし中編「らくだの掌」が収録されている。詰まらないのではなく、あいだを詰めない曖昧な距離のなかで、ひとはおたがいを生かし合うことがある。作者は、そのあわいに踏み込み、生のざらつきを確かめようとしている。

 

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