ちくま新書

創造に体を張れ
郡司さんの欲望形成支援

郡司ペギオ幸夫著『創造性はどこからやってくるか』の書評を、吉川浩満さんにお寄せいただきました。長年にわたり郡司さんの本を愛読する吉川さんから見た、この本のすごさとは?

 郡司さんの本はしびれる。
 世界には、誰もがよく知っているはずだけれど、いざ説明しようとすると、どうしてもうまくいかなくなる、そんな事柄がある。「生命」はその代表だ。うまく説明できないのは、われわれのせいなのか、あるいは対象のせいなのか、はたまたその両方なのか。よくわからない。ただ、説明できないままでよしとするには、あまりにも重要な事柄にはちがいない。
 郡司さんの主戦場がまさにそこだ。学生時代からの年季の入った読者であるわたしは、生命という格別に説明しにくい対象を郡司さんが説明する、そのやり方の途方もなさにしびれてきた。まったく異質な知性との出会いによって思考回路がショートする感じである(わたしがなにを言っているのかよくわからないという人は、たとえば『原生計算と存在論的観測──生命と時間、そして原生』東京大学出版会、二〇〇四年を開いてみてほしい)。
 それが近年、具体的には『天然知能』(講談社選書メチエ、二〇一九年)と『やってくる』(医学書院、二〇二〇年)から、しびれるのは同じだけれど、まったく違う種類のしびれ方をさせられている。どこか懐かしい感覚だなと思っていたのだが、このたびの新刊『創造性はどこからやってくるか――天然表現の世界』を読んでわかった。これは十代の頃、パンクロックと出会ったときのそれだ。思考回路がショートするのは同じだが、途方に暮れるのではなく、よっしゃ自分もやってみようという気にさせられるのである。
 なにを? それはもちろん、創造/創作をだ。本書は、郡司さんが自身のアート制作の実体験にもとづいて書いた「創造入門」である。生命と創造とが深いところでつながっていることは、彼のこれまでの仕事でも度々示唆されてきた。その意味でも待望の一冊といえる。
 郡司さんは言う。創造とは、「わたし」において、新しいなにかを実現すること、「わたし」の外部との接触を感じること、「やった」「できた」「わかった」という新たな扉を開くものなのだと。
 いい言葉だ。そのとおりだと思う。だが、本書の醍醐味はそうしたありがたい言葉の先にある。郡司さんは本書で、自ら制作したアート作品の展示までのプロセスと、それを支えた創造理論の提示を行っている。いわばステージでジャーンとギターをかき鳴らしてみせるのだが、この実演が予想外に効果的なのである。
 創造といった摑みどころの難しい事柄を理解しようとするとき、われわれはついマニュアルか託宣という回答に頼りがちだ。つまりは楽譜とインタビュー記事であるが、これらへの過度の依存は創造/創作をつまらなくしてしまうだろう。
 他方で、郡司さんが本書で行っているのは、体を張ったモデルづくりである。回答ではなくモデルこそが、潜在的な創造者/創作者たる読者の背中を押す。回答を得た読者の体は止まるが、モデルを見た読者の体は動き出す。パンクの登場がリスナーをアーティストに変えたように、本書には読者を創造/創作へと駆り立てる力がある。
 その意味で、本書は創造/創作に関する欲望形成支援(國分功一郎)のお手本のような例ではないだろうか。同時代のほかの優れた書き手たち、たとえば千葉雅也や坂口恭平、伊藤亜紗らの仕事とも響き合うところがあるように思う。
 本書はマニュアルでも託宣でもない。読者のひとりひとりにそれぞれの創造体験が「やってくる」よう、きわめて周到に調えられた一個の機械なのである。

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