ちくま文庫

百年前の過去が見つめ返す
江馬修『羊の怒る時』書評

関東大震災発生から100年。ちくま文庫では、被災した作家・江馬修による貴重な記録文学、『羊の怒る時』を刊行いたしました。突然起こった惨禍に、人々は動揺し、流言蜚語が発生、そして多くの朝鮮人が虐殺されました。その過程を克明に記録した本書。作家の木村友祐さんによる書評を掲載いたします。ぜひお読みください。

 関東大震災から今年の九月でちょうど百年がたつ。その大きな節目となるタイミングで、当時と現在をつなぐ極めて重要な震災小説が文庫化された。江馬修『羊の怒る時』である。

 読んで、驚いた。歴史上の、つまり「教科書にあったな」という程度で認識していた百年前の出来事が克明に再現されていた。眼前に生々しく立ち上がる震災時の光景に、つい十二年前の東日本大震災の記憶とも結びつく感覚がある。

 語り手である「自分」が見聞きしたものを書いた作品。小説の文体でその時々の情景や心理が丹念に描出されるゆえに、語り手の目を通して読者もその場に居合わせた気持ちになる。しかも、この語り手の思考様式は、今のぼくらとほぼ何も変わらない。大正時代の過去の人という印象はほとんどない。

 地震が発生した一日目は、その後の詳細な経過が語られる。語り手と親交のある朝鮮人の学生二人が、潰れた家の下から日本人の赤ん坊を助けだす感動的な光景も描かれる。その一人、鄭君は興奮して言う。「もうこんな時は朝鮮人も日本人も、自分の子も他人の子も区別ありませんよ」と。

 まさにそうである。だが、彼らのことを知らない多くの日本人にとってはどうだったろうか。朝鮮人は日本人とは「区別」すべき存在だったのではないか。なぜならこの時代、日本は朝鮮半島を植民地にしていた。その後の惨劇は、支配下に置いた人々への内なる警戒心と差別心に根があると思われる。

 一日目の、家に入れずに外で過ごす人々が不安を色濃くしていく様子に、現代のぼくは「ああ、この不安が朝鮮人虐殺に向かわせるのか」と感じる。はたして二日目に入り、朝鮮人が放火して歩いているらしいという噂が人づてに入ってくると、初めは半信半疑で噂していたのが、突如警鐘が打ち鳴らされ、在郷軍人が走り回って朝鮮人の蜂起に対して警戒を呼びかけるうちに、ありもしないことが雪だるま式に動かぬ「現実」へと変化していく。朝鮮人の蛮行を信じない語り手も、朝鮮人の暴徒がやってくるという「情報」を真に受けて、妻と子どもと一緒に家に隠れ、夜通し恐怖の想像に苦しめられる。

 もしぼくがその場にいたら、と思う。「情報」の真偽をたしかめるすべがない中で、会う人会う人に朝鮮人の犯行のことを真顔で言われ続けたら、いつまでも否定できただろうか?

 作中に虐殺場面は出てこない(見たものだけを書くリアリズムの徹底か、検閲による発禁処分を回避するためか)。しかし三日目に入り、男たちがまさかりや刀やピストルで武装したり、在郷軍人が軽い調子で朝鮮人のデマを吹聴するといった描写に、朝鮮人虐殺はこのような高揚した気分の中で起きたのだと実感する。東北訛りの人間が朝鮮人とみなされ追われる場面には、東北人であるぼくもその場にいたら殺されたかもしれないと思う。

 本作を読むと、「事実とは何か」「自分の信じている現実とは何か」を考えざるをえない。今はSNSがあるから大丈夫? でもぼくらは、手軽に拡散するSNSの情報が正確なのか、逐一調べていない。また、危機感を煽って軍備増強を進める政府の言い分をマスメディアが無批判に垂れ流す今は、知るべき情報が入らなかった当時とさほど変わらないのではないか。

 作品の後半、虐殺を免れた鄭君が学業をあきらめて東京を去ることが伝えられる。自分たち民族は「結局は奴隷にされてしまうのだろう」と絶望する姿が痛ましい。第二次世界大戦による敗戦後、朝鮮人や台湾人など旧植民地出身者を監視・管理することから始まった出入国管理制度は今も健在であり、最近も難民の排除を強めた改定入管法が国会で成立した。

 本作を通し、興味津々に過去をのぞき込んでいたつもりが、いつしか逆に、過去のほうから現在を鋭く見つめ返された心地になる。百年前、ぼくら日本人が起こしたあの惨禍から、どれだけこの国と人々は変わったといえるのかと。