ちくま文庫

終わり損ねた時代から
『大塚英志まんが評論選集80's-90's 「14歳」少女の構造』書評

ニューアカとバブルの80年代、そしてコンピュータゲームの時代だった90年代初頭。すべてが記号と化し消費される時代に、まんがは身体と内面の表現を花開かせたーー。
それらすべての後に戦後マンガを読み始めた新世代のマンガ研究者、三輪健太朗さんに、『大塚英志まんが評論選集80's-90's 「14歳」少女の構造』の書評を書いていただきました。

 様々な肩書きと多数の著書を持つ大塚英志が、1980年代後半から90年代前半にかけて執筆したマンガ評論のうち代表的なものを集成し、「1970年」の少年まんがをめぐる書き下ろしの補論を加えた一冊である。「あとがき」に記されているように、収録作の選定と配列は編集者によるものであり、著者が自ら初期の仕事を整理し改訂したというわけではない。しかしだからこそ、最小限の修正のみで初出時の文章がそのまま収録された本書は、とりわけ若い読者にとって、いま改めて大塚の初期の仕事を読み直すための格好の手引きとなるだろう。

 それは何よりも、いまや日文研(国際日本文化研究センター)の教授として一つの権威と化し、国際的にも参照されることの多い彼の議論について、個別の主張への賛否がどうであれ、それがそもそもいかなる言説史的文脈のもとで書かれたものだったのかという歴史性を忘却しないために必要なことである。たとえば大塚英志は、「マンガ」と書かず「まんが」と書き、「オタク」と書かず「おたく」と書く。現在の日本でマンガを論ずる者のなかでは例外的なこの表記法の一貫した選択は、言葉の元来のニュアンスを漂白するカタカナ表記への著者の抵抗と解しうるが、大塚の著作を読む者にとって課題となるのもまた、そうした歴史の漂白作用への抵抗であるはずだ。

 たとえば本書第3章に収録された「記号的身体」をめぐる議論は、学問化されていった2000年代以降のマンガ論でも参照され続けているが、大塚がその論点を提示するきっかけとなった「黒人差別表現問題」や「有害コミック騒動」などの90年代初頭の時代的背景が省みられることは少ない。もちろん、理論的な精緻化が目指される際にある程度の抽象化がなされるのは避けられないし、大塚自身も後の著作でより広範な射程から記号的身体を論じるようになってからは、これらの問題や騒動には必ずしも直接言及しなくなっている。だが、そもそも「記号的身体」がなぜ問題とされなければならないのかという問い自体を欠落させた議論に陥らないためにも、初出時のこうした歴史的文脈を踏まえておくことは重要だろう。

 他人事ではなく、この書評の筆者は1986年に生まれ、アカデミアにおけるマンガ研究という領域が所与の環境となった時勢のなかで大学に職を得た人間である(ちなみに本書を企画した編集者は私の高校の一学年先輩である)。私たちの世代にとって、60年代の高度成長や学生運動は歴史上の出来事である。本書第2章で語られるような、少女文化が消費社会へ接続していく70年代半ばも遠い過去である。物心ついた頃には手塚治虫はすでに世を去っており、バブル景気の残り香はうっすら漂っていたものの、95年を境にすべて霧散し、やがて「14歳」の少年たちがニュースを賑わせるようになった。それから後追いで戦後マンガを読み始めた私にとって、自分が生きてきたのは、何かを「終わり」損ねたままにずるずると続くような空気が支配する時代、そして本書でもたびたび言及される楳図かずおと岡崎京子がともに不在の(新作を読めない)時代であった。だから、そうした時代の訪れる直前に、「終わり」と「成熟」の問題に向き合いながら書かれた本書所収のテクストたちは、いまなお戦後マンガを考えるための重要な手がかりであり続けている。

 それは、私たちよりさらに下の世代の、新しい読者たちにとっても同様であるに違いない。昨年、楳図かずおが27年ぶりの新作を発表した一方で、「捨て子」の主題を楳図と共有している(と大塚が本書で指摘する)大江健三郎は今年他界した。戦後日本を振り返るにはこれ以上ない時宜を得て、本書は刊行されるわけだ。つい先日には、やはり何かを「終わり」損ねたことで90年代以降ひたすら苦しい歩みを続けてきた宮崎駿の新作も公開された。さてそこで、私たちは、どう生きるか。

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