ちくま新書

非暴力思想とは何か
『ガンディーの真実――非暴力思想とは何か』より「はじめに」

「もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、私は疑いなく暴力を選ぶよう助言するでしょう」(1920年「剣の教義」)
このように断言するガンディーの「非暴力」とはどんなものなのでしょうか。
間永次郎『ガンディーの真実』より「はじめに」を公開します。

†あるジャーナリストの「困惑」
 「非暴力」という言葉で私たちは何をイメージするだろうか。日本語では言葉の通り、「非」という否定形接頭辞に「暴力」がつき、最も一般的には「暴力を用いないこと」を意味する(『広辞苑』、『日本国語大辞典』)。日本語の非暴力は、英語のnon-violenceの訳語として1960年代頃に人口に膾炙した言葉であるが、英語でも主に「暴力の使用(the use of violence)を回避した原理や実践」や「力(force)によらない方法」を意味する(『オックスフォード英語辞典』、『オックスフォード現代英英辞典』)。この言葉は今日、国内外を問わず、日常的な用語として私たちの社会で幅広く用いられている。
 私たちはあたかも、この非暴力という言葉が古今東西から普遍的に存在していたように思いがちである。だが、その語源は極めて新しく、歴史上で最初に非暴力(つまり、英語のnon-violence)という言葉を明確な意図をもって造語した人物は、イギリス人でもアメリカ人でもなく、英語を母語としないインド人のM・K・ガンディー(1869―1948)であった。
 ガンディーが非暴力という言葉を使い出したのは、40代後半の年齢で独立運動家としての地位を確立し、インドで反英闘争を開始した1919年からであった。ここで留意すべき点は、生前に彼によって提唱されていた非暴力という言葉の意味は、現在、私たちの社会で日常的に用いられている意味とは大きく異なっていたということである。

サロージニー・ナーイドゥーが率いるデモ行進の様子(1930年5 月21 日、ダラーサナーの製塩所の前にて)
上/1940 年代に描かれたバザール・アート(コロンビア大学のFrances W. Pritchett 名誉教授の厚意による)
下/『グジャラート・サマーチャール』紙2019 年6 月30 日号掲載

 上の絵画と写真を見て欲しい。これは、ガンディーが指導した非暴力運動として最も有名な1930年の「塩の行進」の一場面である。塩の行進とは、大英帝国によるインドの植民地支配の象徴と考えられた塩税法(高額な税を課すことでインド人に自由な製塩を禁じた法律)を、ガンディーに従った1万人以上のインド人が自発的に破って一斉に亜大陸の海岸沿いで製塩活動を行った大衆的抗議行動である。
 この行進の中でも一番の盛り上がりを見せたのは、グジャラート地方南部の沿岸付近にあるダラーサナーという町の製塩工場の前で、ガンディーに権限を委託された女性指導者のサロージニー・ナーイドゥー(絵画で先頭に立つ人物)の指揮下に行われた2500人の非武装男性による抗議行動であった。ナーイドゥーに率いられたこれらの行進者は、鉄の石突きの付いた棍ラーテイー棒を持って工場の前で立ちはだかる警官の存在を意にも介さず、規律正しく列をなして、製塩を行うために工場の中に入ろうと前進していった。
 最初の隊列が警官の前まで来た時、警官は彼らに襲い掛かり、棍棒で殴りつけた。殴られた人々は、骨を折り、血を滲ませて失神して倒れたり、衝撃を受けて地上で手足をばたつかせたりした。脳天が割れて死んだ者もいた。それでも殴られて地に臥したと思ったら、次の隊列が寡黙を守ったままやって来て、警官の棍棒の雨になされるがままとなった。この隊列も倒れると、すぐに次の隊列がやってくるという具合に、打擲・転倒・行進のサイクルが絶え間なく続いたのであった。
 この時の様子を直に目撃したUP通信社の著名なジャーナリストであるウェッブ・ミラーは、電報通信機のもとに走っていき、その場のリアルタイムの状況を、興奮混じりに『ニューヨーク・テレグラム』紙(1930年6月22日報道)に伝えた。

私はこれまで22カ国で18年間レポートをしてきて、無数の民衆の反乱・暴動・市街戦・謀反を目撃してきたが、ダラーサナーにおけるほど心を揺さぶる光景を目撃したことがない。それは驚愕すべきものであり、暴力に対して暴力で応じること、つまり殴られたらやり返すことを見ることに慣れ親しんだ私たち西洋人の心を困惑させるものだった。

 さらに、数年後に出版されたミラーの自伝(『ある特派員の記事』1936年)でも、彼は次のように回想している。

誰もが数分で打ちのめされ、もしかすると殺されるかもしれないことを知っていたが、そこには躊躇したり怯えたりする様子は全く見られなかった。[……]警官が駆けつけて次々と機械的に隊列を打ちのめした。そこにあったものは戦いでも闘争でもなかった。行進者たちはただ叩きつけられ、倒れるまで前進を続けるだけだった。

 ミラーは、この時にかつて味わったことのない奇妙な感情を抱いたと告白している。ミラー曰く、この行進者たちは「幽霊にでも取りつかれたような」目をしており、それは一見彼がこれまで他国で目撃してきた軍事的ナショナリストの狂信と似ているようにも思えた。しかしながら、それらとは明らかに違うものがあった。それはガンディーの従者たちが、誰一人、相手を傷つけていないことであった。軍事的ナショナリストも非暴力行進者も、時に自らの命を賭して、目的や大義を達成しようとする点で共通していた。だが、前者が敵対者の命を犠牲にするのに対して、後者は対峙する相手の命を奪うことはなかった。「敵」に命がけで抵抗しながらも「敵」を決して殺さない。この不思議な光景を前に、ミラーは心底「困惑」したのだった。それは、単なる「暴力を用いないこと」や「力によらない方法」といった言葉では言い尽くすことのできない強烈な印象をミラーに焼き付けた。行進者の瞳孔の中にうかがわれたのは、天地が逆転しようとも、自らの信じる「真実」に忠実であろうとする不屈の意志であった。
 イギリスが1882年に制定した塩税法の廃止を求めるガンディーの抗議は、運動が始まった最初の段階では、イギリス人の為政者から一笑に付されたという。また、軍の配備や武器の調達こそ、反英闘争に不可欠であると考えていたインド人独立運動家の多くは、なぜガンディーが、塩というどこにでもある日用品を政治的な争点としたのか理解できず、その効果を疑った。しかしながら、ガンディーを先頭にわずか79人で開始された非武装の行進は、日が経つにつれて規模が拡大し、3週間後には、彼らの後ろに1万2000人のインド人が従っていた。さらに、新聞やラジオなどのマスメディアの力も追い風となって、運動の余波はインド全土に波及し、最終的に数百万人の人々が集団ストライキ・ボイコットに参加するに至った。イギリス政府は、もはや状況が深刻な国家レベルの危機であることを認めざるを得ず、警官・兵士を派遣して、運動参加者に対する無条件の逮捕を命じた。
 全てのインド人の家庭の台所にある塩というありふれた調味料(インドでは台所は一般的に女性のテリトリーとされる)を争点とした闘争は、誰も予期しない形で急速に拡大し、インドの老若男女、特に識字能力を持たない大多数の農民たちの想像力を搔き立て、彼らの心に火を付けたのだった。いみじくも著名な政治学者のデニス・ダルトンは、塩の行進を「近代インド史上、最もドラマティックな出来事の一つ」(『マハートマー・ガンディー』1993年)と表現している。
 人々の感情と理性の最も深い部分、それをヒンドゥー教の伝統においては、「魂」(サンスクリット語では「アートマン」あるいは「アートマー」)と呼ぶが、塩の行進の最高指導者であるガンディーは、まさに人々(特に国内で脇へ追いやられていた人々)の魂に訴えかける術にすこぶる長けていた。奇しくもガンディーは、インドで「偉大なる魂を持つ者」を意味する「マハートマー」という尊称で呼ばれた(「マハー」は「偉大なる」で「アートマー」は「魂」の意)。
 20世紀に提唱されたガンディーの非暴力の思想は、没後、無数の政治家や社会活動家にインスピレーションを与えた。最も有名なところでは、マルティン・ルター・キング・ジュニアの公民権運動、南アフリカの反アパルトヘイト運動、アウンサンスーチー率いるビルマの民主化運動、ダライ・ラマ14世の思想・活動やセサール・チャベスの公民権運動など枚挙に暇がない。一人のインド人が率いた反植民地闘争の余波は、国境・文化・言語の壁を越えて、世界各地に伝搬したのであった。
 いったい、ガンディーは非暴力の思想を、なぜ思いつき、またどのように作り出していったのか。また、彼の非暴力思想とは、私たちが日常的に認識している意味とかなり違うようであるが、その実相はいかなるものだったのか。そして、ガンディーの非暴力思想は、21世紀に生きる現代の私たちに何を訴えかけるのか。
 中高の世界史の教科書にも名が乗るほど著名なガンディーという人物であるが、実のところ、彼の中心思想である非暴力は、これまで多くの場合誤解されてきた。それは改めて分析され直し、再発掘・再考されなければならない。

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