ちくま新書

非暴力思想とは何か
『ガンディーの真実――非暴力思想とは何か』より「はじめに」

「もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、私は疑いなく暴力を選ぶよう助言するでしょう」(1920年「剣の教義」)
このように断言するガンディーの「非暴力」とはどんなものなのでしょうか。
間永次郎『ガンディーの真実』より「はじめに」を公開します。

†誤解されたガンディーの非暴力思想
 まず、ガンディーの反英独立運動について学んだ者の多くに浮かび上がる最初の率直な疑問は、「そもそもガンディーはなぜ非暴力の運動をやろうと思ったのか」、「よく非暴力で現実の政治が動かせると思ったものだな」、「結局、彼の非暴力って何だろう」といったものだろう。こうした疑問を考える上で、第一に重要なことは、逆説的に聞こえるかもしれないが、私たちが一旦、ガンディーの非暴力思想を吟味する上で、「非暴力」という言葉にとらわれるのをやめる必要があるということだ。冒頭で述べた通り、私たちは非暴力という言葉を語る時に、どうしても字義通りの「暴力を用いないこと」や「力によらない方法」といった意味を真っ先に連想してしまう。このようなイメージを持つことが、ガンディーの思想と運動の本質を理解することを妨げてしまうのである。
 たとえば、自らの非暴力思想の意味を説明した最も有名な記事の一つである「剣の教義」(1920年)において、ガンディーは次のように述べている。

もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、私は疑いなく暴力を選ぶよう助言するでしょう。[……]私はインドが臆病な姿になって不名誉を被るのを大人しく見るぐらいならば、名誉を守るために武器を取るように勧めます。

 また、ガンディー自身が刊行する週刊紙の一つである『神の民(ハリジャン)』(1946年2月10日号)に掲載された記事の中でも、次のようにガンディーが語ったことが記録されている。

最後に彼[=ガンディー]は警告した。もし誰かがある人のところにやって来て、非暴力の誓いを交わしたために婦人たちの名誉を護れない[=暴徒から護ることができない]と訴えるならば、容赦してはいけません。非暴力は決して臆病者の盾に用いられるべきではありません。それは勇者の武器です。そのような残虐行為を為す術もなく傍観するよりは暴力を用いて討ち死にした方が良いでしょう。

 これらの言葉は、私たちに少なからぬ困惑を呼ぶ。ガンディーは生涯の中で、幾度となく、自らの「非暴力」の意味を無抵抗(厳密には「受動的抵抗(passive resistance)」)と混同されそうになった時、非暴力は「臆病」と異なることをはっきりと断言した。加えて、重要なポイントは、非暴力とはあらゆる、、、、力の否定とも異なるということである。
 読者にとって最もショッキングな事実は、「平和の使徒」として有名なガンディーが生涯に4度も従軍していたことであろう。1回目と2回目が、南アフリカの第二次ボーア戦争(1899年)とアングロ・ズールー戦争(1906年)であり、3回目と4回目が第一次世界大戦(1914年と1918年)であった。誤解を招かないように述べておくと、ガンディー自身は、戦地で決して武力を行使したり、人を殴ったり殺めたりしたことはない。だが、彼は南アフリカでは衛生看護部隊を率いてイギリス兵を介護し、第一次世界大戦中は1万2000人のインド人兵士を戦場に派遣するための徴兵活動を行った。
 さらに、私たちは非暴力という思想を、専ら政治的なものであると考えがちである。ガンディーの非暴力は歴史書の中でも、ほとんどの場合、反英独立運動の文脈でのみ言及される。しかしながら、ガンディー自身は、非暴力を食・衣服・性・宗教といった一般的に人々の私的なものとされる関心事にも繫がる主題として語っていた。
 以下にこれらの主題(食・衣服・性・宗教)について、ガンディーが語っている言葉を引用したい。まず食についてだが、たとえば、ガンディーは「魚を食べる者」と「魚を与える者」(ようするに肉食)は「暴力を犯すことになりますか」という読者(ガンディーが刊行する週刊紙の読者)から受けた質問に対して次のように答えている。

どちらも暴力を犯すことになります。野菜を食する者も暴力を犯しています。世界はその本質において暴力的(ヒンサーマエ)なのです。肉体はそのような[不可避の]暴力の一部分として存在しています。このような状態の中で、非暴力の義務を果たさなければなりません。[……もし他人に菜食を]強要するような者がいれば、それは最も悪質な暴力となるでしょう。[『神民の兄弟(ハリジャンバンドゥ)』紙1946年3月24日号]

 また、同じく自らが編集する週刊紙の中で、衣服、性、宗教についても次のように記した。

[衣服について]
グルカ族[ネパールの山岳民族]やパターン人[アフガニスタンの民族]が私たちを攻撃したからといって何だというのでしょう。当然ながら、私たちにとって、彼らの暴力の方が、現行政府[イギリス]が行使し続けてきた道徳的暴力や物理的暴力よりずっと扱い易いでしょう。[……]インドは自国の人々が食べるのに十分な食料と衣服も生産することができます。もし私たちが依存心をもって外国人の貪欲さの虜になるならば、彼らの侵略の餌食となります。[『青年インド』紙1920年12月29日号]

[性(欲)について]
私たちは単に動植物に対する慈悲(ジーヴァダヤー)を維持するだけでは、性欲や怒りなどに打ち勝つことができないことも、覚えておくべきです。それらの六つの心の敵[性欲・怒り・貪欲・心酔・高慢・虚偽]に打ち勝つためには、あらゆる人間に対する非暴力が有効です。それらの六つの心の敵に打ち勝ち、全人類に対する愛情を宿すような人がいれば、その人はたとえ肉食者であっても心からの敬意に値します。[『神民の兄弟』紙1940年9月14日号]

[宗教について]
ハーン・サーヘーブ[ガンディーが信頼を置く仲間]の非暴力の土台は聖なる『コーラン』です。彼は敬虔なムスリムです。[……]彼は一度も祈りを欠かしたことがなく、一度も断食を欠かしたことがありませんでした。しかしながら、ハーン・サーヘーブは他の宗教に対して完全な尊敬心を持っています。[『神民の兄弟』紙1940年7月20日号]

 このようにガンディーの非暴力は、単に政治的な抗議の方法としてのみ語られるものではなく、衣食住や宗教を含む公私を跨ぐ生活領域全体に及ぶ主題だったのである。

†サッティヤーグラハ=真実にしがみつくこと
 ガンディー自身の非暴力思想の意味を理解する上で、語の起源や思想の系譜を明確にすることは不可欠であろう。先に、ガンディーが英語のnon-violenceという言葉を最初に用いたのは1919年であったことを述べた。具体的には1919年4月18日であり、この日はガンディーがインドで最初に行った全国規模の反英ボイコット・ストライキ運動が開始して二週間後に勃発した大衆暴動事件の直後であった。また、ガンディーは非暴力の語を、自国の言葉(故郷のグジャラート地方で話されるグジャラーティー語や、インドで最大の話者数を持つヒンディー語など)で、ヒンドゥー教・ジャイナ教・仏教で広く奉じられる「アヒンサー(不殺生)」というサンスクリット語由来の宗教概念でも説明したが、この言葉を政治運動で使用するようになったのは、1915年以降であった。
 ガンディーが1919年からnon-violenceの語を、1915年からアヒンサーの語を、それぞれ活用し始めたという事実は、彼の生涯にある程度詳しい人ならば、驚かずにいられないだろう。なぜなら、ガンディーはこの1919年あるいは1915年以前にも、すでに長期にわたる「非暴力」運動を行っていたはずだからである。ガンディーは40代後半からインドで政治活動を開始する前に、23歳から44歳までの21年間にわたって南アフリカに滞在していたが、この地において、生涯最初の集団的不服従運動(1906〜14年)を行った。これはイギリス人とオランダ系移民(ボーア人)の白人統治下にあった南アフリカに住む在留インド人を対象とした有色人種差別法の撤廃を求める抗議運動であった。換言すれば、ガンディーは非暴力という言葉を使用する前に、少なくとも八年間の「非暴力」不服従運動を行っていたのであった。
 それでは、非暴力という語が使用される以前の「非暴力」運動は、ガンディーによって何と呼ばれていたのだろうか。それははっきりとした名前を持っていた。それは「サッティヤーグラハ」である。この言葉は、サンスクリット語由来の言葉(「サッティヤ」と「アーグラハ」の結合語)で作られたガンディーの造語であるが、字義的に「真実(サッティヤ)にしがみつくこと(アーグラハ)」を意味する。つまり、先ほどの塩の行進でも見られたように、天地がひっくり返ろうとも、自らが「真実」だと思う信念に決して妥協を許さないという断固たる意志・実践が、その語の意味するところなのであった。
 この「サッティヤーグラハ」という名称は、南アフリカ滞在期以降の全てのガンディーの非暴力運動、さらには彼の公私を跨ぐ人生の全活動の本質を示す概念としても使用されたのであった。そして、ガンディーはサッティヤーグラハ=真実にしがみつくことは「必然的に(精神的な)力を生み出す」と説明している。ゆえに、サッティヤーグラハは「真実の力」や「魂の力」とも言われた。つまり、非暴力に対する「(あらゆる)力によらない方法」という辞書的な定義は、非暴力の語源や系譜を考慮しても間違っているのである。

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