ちくま学芸文庫

私の出会った「本の中の矢野健太郎」

「エレガントな解答」という言葉は今でこそ数学の一つの特徴を表わす一般的な言葉になってしまったようだが、それが広まるきっかけになったのは矢野健太郎だったらしい。古くからの数学ファンには懐かしい響きを持った言葉であり名前である。筆者と同世代かちょっと下の人なら、「ヤノケン」の名前は、有名な受験参考書の著者として名高い。この受験参考書は名作で(参考書にも名作はあるのです)指導要領なる代物がどう変わろうとも、高校数学の見事な解説書になっていた。かく言う筆者も高校生の頃、受験参考書だけでなく、数学エッセイとつぼを心得た一般向けの数学解説書を夢中になって読みふけり、まるで自分が直接講義を受けているような気持ちになったことを思い出す。私は残念ながら矢野健太郎に直接教えを受けることはなかったが、何冊かの解説書やエッセイはいまでも手元に残り、アンダーラインや精一杯の背伸びをした書き込みがとても懐かしい。数学書との幸せな出逢いだったといまにして思う。
 その頃、数学は今ほどポピュラーではなく、何冊か一般向け解説書や数学者のエッセイはあったが、孤高であることが数学の誇りという感覚もあり、矢野健太郎のようにわかりやすい解説やエッセイを書く数学者はあまり多くはなかった。その肩肘張らないゆったりとした数学解説が、数学の面白さを大勢の人に伝えた功績は大変に大きいといわねばならないだろう。
「エレガントな解答」は矢野健太郎が日本に持ち込んだ言葉で、どうやら出所は彼が在籍したプリンストン高等研究所のようだ。新聞連載の形で提出された「エレガントな解答」のなかには小学生レベルの算数から採られた問題がたくさんある。私たちは算数の知識をふだん何気なく使っているが、そして、それは何気なく使われるということに一つの大きな意味があるのだが、それを改めて考え直してみることが、人の思考力を高めるとてもいい問題になっているということがよくわかる。昨今、○○式速算術という類のタイトルの本がよく読まれているらしい。しかし速算の方法をただ暗記するだけではつまらない。「なぜ? どうして?」という問いかけは数学を面白くする最大の要因のひとつなのですから。その後「エレガントな解答」というタイトルは矢野健太郎と遠山啓が創刊した雑誌「数学セミナー」に「エレガントな解答をもとむ」として引き継がれ、現在まで連載が続いている。もちろんその精神は変わらず、「なぜ?」を大切にしているのだけれど、新聞連載の「エレガントな解答」には、少しグレードアップした「エレガントな解答をもとむ」と違って、本格的な数学に踏み込む一歩手前で立ち止まって考えている風情がある。それは算数好きな小学生が「どうして?」と考えることをとても大切にしていた。もちろんある意味「とてもやさしい」問題ともいえ、実際、解答者の中にはあまりに幼稚な問題といってきた方もあったとか。しかし、一部の数学マニアには不満があったのかも知れないが、矢野健太郎ならずとも、小学生が見事な解答を寄せたことを喜びたくなるし、ねらいもそこにあったに違いない。
 どんな学問でもそうだが、ピラミッドは底辺が大きいほど頂点も高くなる。「エレガントな解答」者がそのうちに「エレガントな問題」の発見者となり、そして「エレガントな証明」を書く数学者になる、かもしれない。もちろん、そんな効果を期待してのエレガントな解答ではないけれども、算数から多くの題材を採ったことはとても大きな意味があると思わないではいられない。「エレガント」はむずかしい知識の中にあるのではない、考え方そのものの中にあるのです。
 矢野健太郎の文章は読みやすいが、今の目から見ると少しだけ古風な感じがして、それが一種の風格にもなっている。古いファンなら矢野節をもう一度堪能してほしい。若い人なら数学がまだいまほどポピュラーでなかった時代、こんな文章を書いた数学者がいたことを知ってほしいと思う。

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