ちくま学芸文庫

記録から保持、復興へ
『アイヌ歳時記――二風谷のくらしと心』文庫版解説

8月刊行のちくま学芸文庫『アイヌ歳時記――二風谷のくらしと心』(萱野茂著)より、文庫版解説を公開いたします。アイヌ文化の保持・継承に生涯を捧げた萱野茂。その多大な功績にどう向き合い、どのように発展させていくことができるのか。気鋭の研究者、北原次郎太氏が切り込みます。

 しかしここからの歩みは対照的である。以前の人びとが、もっぱら自文化の記録に努めたのに対し、萱野はアイヌ社会内での保持、さらに踏み込んで復興を志向した。いわば、実践者としての立場から、研究的視点を獲得した後も実践者であり続けた点に萱野の特異性がある。
 例えば、萱野は民具の収集と関連文化の記録に力を入れたが、その多くを自らも復元的に製作した。その最たるものはチセ(家屋)建設(1972年)であろう。萱野は、用地選定と神託を得る儀礼、新築儀礼など家屋建設にまつわる諸々をすべて実践し、それを撮影する形で記録した。他にも婚礼(1971年)や葬儀、クマ送り(1977年)をはじめとする様々な霊送りなどを次々と実践し、それらを若い世代の学習の機会としても活用した。そこには、工芸品製作やガイドといった職業として文化的知識を保持する場を確立し、そこを起点として日常に文化を取り戻していこうとする意図が感じられる。また、古老たちにも、重要な儀礼にカメラや録音が入ることに戸惑う面もあったが、やがて信仰と記録を両立させる論理を自らのうちに構築していった。
 こうしてまとめられた萱野の記述は、民具製作にせよ儀礼の催行にせよ、非常に実践的で、それらを行おうとする人々の手引きともなるものである。アイヌ語についても、いわゆる伝承文学の習得にとどまらぬ形で活用し、なおかつアイヌ語の地位を高める方法を模索した。1993年に国立民族学博物館で開催された企画展「アイヌモシリ 民族文様から見たアイヌの世界」における開催挨拶、1994年のアイヌ語による国会演説などはその一例である。
 実践には変容がつきものである。単なる復元ではなく、生きた文化として実践するのであればなおさらである。萱野は新しい取り組みにも鷹揚で、儀礼・行事の創出なども自ら牽引していった。それはある意味では「伝統文化」の高い敷居を下げることでもある。アイヌが自らの文化を忌避したのは、貧困と差別にまみれた歴史のなかでのことだった。だからこそ、若い世代に仕事の大切さや禁酒の必要を説き、子供たちとともに遊び、その時々の暮らしを充実させることにつとめた。そうして穏やかな日常と心の平穏を取り戻すことの延長にこそ尊厳の回復と文化の復興がある。知里がアイヌ自身による研究を進め「アイヌ」と「研究者」の境目を突き崩したパイオニアだとすれば、萱野は研究と継承が一体となった、今日一般的になりつつあるスタイルを確立したパイオニアだといえよう。

 萱野の研究は、基本的に沙流川流域を中心とした地域の人びとからの聞き書きに立脚している。郷土の文化を内から記した記述は細部にわたり、他の研究者が見落とした/知り得なかった民俗を掬い上げている。また、共時的な記述にとどまらず、通時的な研究も試みている。たとえば『アイヌの里――二風谷に生きて』などに書かれた、衣服の文様の起源を魔除けの縄に求めた見解などがそれで、近代に見られた文化が形成される過程を遡及的に考察したものである。萱野の著述を注意深く読むと、実際に見聞きした事柄と、自身の考察は明確に分けて書かれていることが多い。こうした実証的な態度には、知里から受けた教示が生きているのだろう。
 いっぽう、外からの視点で萱野の研究を見ると、沙流川流域の情報に立脚していることが、研究上の限界をも生んでいることに気づく。つまりアイヌ文化の内なる多様性への言及や周囲の異文化との比較検討は、皆無ではないにせよ多くはない。例えば、萱野はアイヌ語樺太方言を収録した録音資料の整理に協力したことがあり、この時のことを振り返るなかで「同じアイヌ語なのですべてわかった」と述べている。この例が示すように、細かな差異よりもアイヌ文化としての同質性を強調する場面が多く見られる。
 ただ、沙流川流域は言語的にも文化的にもやや特殊な特徴を持つ地域である。例えば多くの地域ではイナウという祭祀具に刻印を刻むのを常とするが、沙流川、鵡川周辺の地域では特殊な場合にしか刻印を刻まない。同じく祭祀具のひとつであるイクパスイの裏面に、沙流川周辺では「舌」と呼ぶ三角形の刻み目をつける。萱野はこの刻み目を、イクパスイが機能する上で必須のものだと述べるが、隣接する鵡川町や浦河町では裏面ではなく表面に刻み目をつけ、さらに北海道東部や千島、樺太ではこうした刻み目をつけないことが一般的である。したがって「どこの地域も概ね同じ」という紹介は、アイヌ社会内部の読者には不満が残る。また、イナウや樹皮製衣服のアットゥなどはアイヌ社会の外側に広く展開しており、こうしたもののアイヌ文化における特性をとらえるには、より広い地域での比較研究が必要である。こうした点に萱野の研究を批判的に継承していく余地がある。
 研究上の領域という点では、衣食住から言語、文学、信仰まで広い領域をカバーしているものの、性に関する研究、差別に関する研究は比較的少ない。性については、蓄積したデータはありつつも、発表を控えた面もあるようだ。差別については、和人からアイヌに向けた差別についての言及がほとんどで、アイヌ社会内部に存在した力の不均衡にはほとんど触れていない。萱野も他の研究者も沙流川流域を「アイヌの都」「アイヌ文化発祥の地」と表現することがあるが、そうした言説が「沙流川の文化こそが真正のアイヌ文化である」とする認識を産み、アイヌ文化の多様性をとらえることを阻害している面がある。そうした地域の出身であり、なおかつ男性で著述家で政財界にも顔が広い、という立場からは見えにくいものも多くあったであろう。別の立場からの研究が俟たれる。

 冒頭に述べたように、没後10年を経ながら萱野茂論が出ないのは何故か。萱野は生前から、知里と同様に「自身がアイヌである研究者」として特別視される風潮があった。没後にはいっそう巨人として仰ぎ見るばかりで、その言説に疑義を挟むこと、批判的に読むことを躊躇するような雰囲気が強まっていないだろうか。他文化の研究者には「萱野さんが言うんだからそうなんだろう」という態度も見られ、アイヌ研究においても萱野の説だからと無批判に自説の論拠とするものがある。
 たしかに萱野の残した物は大きい。本書『アイヌ歳時記』にも、二度と得られない多くの知見が含まれている。なかには、その意味を、萱野の真意を問うてみたいものもあるが、それはついに叶わぬままになってしまった。萱野の語った「オナ オラウキ(親に遅れた者=大切なことを聞く前に親に旅立たれた者)」という言葉を実感して立ち尽くすばかりである。それでも、残された物を読み解くことから始めるしかない。そうした試行錯誤の末にこそ、萱野の研究の真価を知り、継承することが可能となろう。

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