2006年5月6日に萱野茂先生が亡くなられてからはや10年が経過した。アイヌ語・アイヌ文化の記録と紹介・解説、著述業、工芸品製作や文芸の口演はもとより、社会的には開発の抑制と自然の回復を目指して運動し、町議会議員・国会議員としての政治活動まで萱野先生の活動はたいへん幅が広いものであったから、人によって思い浮べる萱野茂像は様々だろう。私より上の世代のアイヌ語・アイヌ文化に関心を持つ者にとって、萱野先生はアイヌ世界への導き手と研究者の面を併せ持った存在であり、死去の報は衝撃を伴って受け止められた。
その年にはテレビ各局によって追悼番組が多数制作され、2008年には奥様のれい子氏と写真家の須藤功氏が中心となって『写真で綴る萱野茂の生涯――アイヌの魂と文化を求めて』(農山漁村文化協会)がまとめられた。しかし、その存在に多大な影響を受けたはずの研究者たちには、萱野茂論を語ることにいまだ躊躇があり、研究の評価や位置づけも棚の上に上げられたままの感がある。といってここでそれを論じることは、私の力では到底及ばない。半世紀も遅く生れ、本州で育った私にとって萱野先生は遠くから一方的に知っていただけの存在である。ただ、萱野先生の著作から多くを学んできた者の一人として、また平取町とは別な地域にルーツを持つアイヌの視点から、本書を読む上での参考となる程度にその歩みを跡づけてみたいと思う。間接情報や推測も含んだものとなることを予めご了承いただきたい。真の萱野茂論は、萱野氏と直接に深く関わった人びとによって書かれるはずである。なお僭越ではあるが、学術的な書籍に掲載されるものであることを考慮し、以下敬称を省略させていただくことにする。
萱野茂は1926年、平取村二風谷(現平取町二風谷)に生を受けた。これに先立つ半世紀の間、北海道では和人(日本国の民族的マジョリティ)の入植政策が急速に進められ、1900年頃には、アイヌ人口18,000人弱にたいし、和人の人口が100万人に達した。アイヌは故地にいながら完全な少数者となり、それまでの居住地や、生産の場であった山野海浜は国の管理下に置かれ、日本語の強要と生業への規制が進められた。そうしたなかで、多くの者は生き方を大きく変えることを余儀なくされ、アイヌ語を使用する機会も激減した。当時の和人の旅行記などには、アイヌの話す日本語がつたないことを笑い話として紹介したものがある。実用だけでなく嘲笑されないために、日本語の習得は必須であった。「アイヌらしく」見られる慣習は、一日も早く捨て去らねばならなかった。
その一方、従前からの技術を応用して手工芸品の製作販売が行われ、国内外の博覧会等に出展し、また本州まで遠征しての興行も行われた。やがて鉄道や幹線道路が整備された地域では、今日につながる形での観光も始まった。しかしそれらは、観光に従事しないアイヌには(侮蔑の対象となる)旧習を殊更に強調し、差別を助長するものとして受け止められた。特に民族衣装を着用する演出などが強く批判された。
工芸や芸能を職とすることは、通常それ自体が非難されることではない。古い時代の衣装を身につけることも、野外博物館などでの古文化展示においては一般的な手法である。アイヌたちに批判的な感情を抱かしめたのは、アイヌの「未開性・後進性」を期待してやってくる和人たちの視線である。「古文化紹介のため」という断りなど耳にも入らず、否応なく「珍奇」で「未開」な姿をアイヌの本質と見なす(和人の興行師などが介在する場合には特にアイヌの異質性が喧伝されたし、アイヌ自身が相手の求めに応じざるを得ない面もあった)。そうした好奇心と侮蔑を伴ったまなざしを前に、多くのアイヌは「それは現在の自分たちとは違うもの」であり「消え去った過去に属するもの」だとして訣別を表明せざるを得なかった。
萱野に先立ってアイヌ社会内部からの研究を開始し、博士号を取得した知里真志保(1909-61)は、現在の登別市で生れた。当時のアイヌ家庭としては経済的にも裕福な環境に育ち、父や姉を介して人脈にも恵まれていた、いわば典型的な先住民エリートだとされている。知里は1935年に記した『アイヌ民譚集』の後記において「過去のアイヌ」と「現在(及び将来)のアイヌ」とを厳然と区別することの要を主張し「後者は侮辱と屈辱の附きまとふ伝統の殻を破つて、日本文化を直接に受継いでゐる」と述べている。これは、(彼が地理的にも学問的にも日本の中枢にいながら、常に「野蛮人」視を免れ得なかったことに象徴されるように)当時のアイヌに向けられた視線への反論として書かれたものである。これと同様に、在来の言語・文化に愛着を感じつつも、それらとの距離を強調する論調は、同世代の歌人違星北斗や森竹竹市らの手記にも見えている。
知里が右の文を書いたころ、萱野は少年時代を迎えていた。祖母てかってとの暮らしや付近の人びとの触れ合いのなかで、この世代としては飛びぬけて高いアイヌ語・アイヌ文化の知識を身につけていった萱野は、やがて小学校卒業と同時に造林などの仕事を始め、青年期になる頃には、知里と同様に観光や学術研究に強い反感を持つようになっていた。
今日でも「研究」という言葉は、多くのアイヌにとって決して愉快な言葉ではない。アイヌ研究が開始されて以来、その主体は多くの場合和人であり、彼らは露骨な優越意識を漂わせつつ、アイヌを一方的に眺め、様々なものを持ち去っていく存在であった。萱野自身もそうした研究者への憤りをたびたび言葉にしている。
萱野の代表的な著作の一つである『アイヌの民具』のあとがきによれば、民具収集の動機は、故郷の平取町二風谷から愛着のある品々が徐々に流出していくなかで、昭和27年(1952年)の秋ついに父清太郎がもっとも愛蔵していた捧酒箸まで研究者によって持ち出されたことへの憤りに端を発しているという。『アイヌの里――二風谷に生きて』では、研究者が記録したものがアイヌの利用を考えない形でばかり公表され、語り手たちに何も還元されないことへの不満が簡潔な表現でつづられている。
このように若き日の萱野にとってはアイヌ語・アイヌ文化研究もまた、自分たちにとっては何も得るもののない、差別を惹起するだけの行為として映っていた。萱野の筆致は穏やかだが、内心に秘めた怒りは激しいものがあっただろう。たとえば、当時のアイヌ研究を集成するものとして1970年に刊行された『アイヌ民族誌』では、歴史・言語・文化のみならず、アイヌの身体的特徴や「人種」的ルーツに関する論考にも多くのページが割かれていた。図版のなかには老年のアイヌ男性が上半身裸体で写されたページがあるが、萱野の手元にあった同書は、そのページが黒く塗りつぶされていたという。敬うべき老人を裸にして撮影し、なおかつ、差別の大きな原因ともなってアイヌを苦しめてきた「体質」を固定化し流布する研究が、アイヌのためのものになろうはずがない。自分たちについて何が書かれているのか知るために研究書を入手するアイヌは多い。しかし、ページを開くとそこには正視に堪えない言葉がならんでいる。ページを塗りつぶすことは、科学の名のもとにアイヌの精神をふみにじってきた和人研究者たちへの抗議であっただろう。
しかし、萱野は研究行為そのものの拒絶から、アイヌ自身による研究を志向していった。27歳の時、小中学校を巡る興行に協力したことをきっかけに観光の世界に入り、1972年には二風谷に「二風谷アイヌ文化資料館」(初代館長・貝沢正)を建てて、訪れる人々にアイヌ文化の紹介を続けた。観光で得た収入により、民具収集のほかにアイヌ語の録音保存にも着手した。和人研究者と同じようなことをしているとして冷ややかな目を向けられることもあったというが、収集・記録という行為は同じでも、アイヌが行えばアイヌ社会外部への流出という事態は防げる。アイヌとしての立場を共有できる者には和人研究者とは違った研究が可能なはずだ、という思いがあったのだろう。そして、それを既に実践していた知里は憧憬の対象であった。萱野は昭和32年(1957年)8月15日に、知里と出会い、激励を受けるとともに実証的な研究の基礎を説かれたという。