藤原定家の名とともに多くの人々が直ちに思い出す歌はどれだろうか。百人一首のかるたで聞きなれた「こぬ人をまつほのうらのゆふなぎにやくやもしほの身もこがれつゝ」だろうか、それとも新古今集の代表歌のように言われる「春の夜の夢のうきはしとだえして峯にわかるゝよこぐものそら」だろうか。この集には三夕の歌の一つとされる彼の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」もある。
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之(これあり)候」(「再び歌よみに与ふる書」)と、和歌の改革をめざして大鉈をふるった正岡子規は、定家についても「こまとめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」と「見わたせば花も紅葉も」などがもてはやされる程度だと評し、「定家に傑作無く探幽にも傑作無し」(同前)と断定した。しかし彼を意識の外に置くことはできなかったのであろう、「夜咄や浦の笘屋の秋近き」「絶恋 春の夜の夢の浮橋踏み絶えぬ」などの句を残している。
「見わたせば花も紅葉も」は、あるいは定家自身さほど愛着を抱く作ではなかったかもしれない。彼は五十五歳の年に『定家卿百番自歌合』で自信作二百首を自選し、次いでその遺りを拾う意味をもこめて家集『拾遺愚草』を編んだのだが、その二百首にこの歌は含まれていないのである。
代表歌ということではなく、『拾遺愚草』を相当「丁寧に」読んで、自身「興味がある」「いいとおもふ」と感じた作品数首を挙げた歌人がいる。子規の血脈を相承していると自認する斎藤茂吉である。それは「定家の歌小観」という短い文章で、『文藝春秋』大正十五年一月号に掲載された(『斎藤茂吉全集』第十一巻)。そこで彼は子規とは違って、定家を「一代の巨匠」と認めつつも、「朦朧とした」幽玄体や有心体(うしんたい)の歌が多いので、『拾遺愚草』を「気根よく読つづけることがむづかしい」と言いながら、その中にも明快・新鮮で、橘曙覧(たちばなあけみ)や明治の新派和歌などに通うものがあるとして、次のような歌を挙げる。
里びたる犬のこゑにぞきこえつる竹よりおくの人の家居は 閑居百首
年へぬなやどたちいづる椎が本よりゐし石もこけ青くして 韻歌百廿八首
さを鹿の朝ゆくたにのたまかづらおもかげさらず妻やこふらん 内大臣家百首
ながむれば松よりにしになりにけりかげはるかなるあけがたの月 花月百首
瑠璃の水にしきのはやし色々に心うきたつ秋の山川 三十一字歌いまこむと
人とはぬ冬の山ぢのさびしさよかきねのそはにしとゝおりゐて 十題百首
あさぢふのをののしのはら打なびきをちかた人に秋風ぞふく 水無瀬殿秋十首
そして、「客観的」「絵画的」「実際的」「細かい感覚」などの語を用いて、そこに子規の首唱した写生との脈絡をさえ考えているのである。もしも子規が生きていたらどう思っただろうか。
じつは私もこの全歌集の仕事として、すべての定家の歌にめりはりをつけず加注するかたわら、決して知名度は高くないが自身の心に響いた歌、おもしろいと感じた歌を、十首、十二首と抜いて小文を草したことがあった(「定家十二ヵ月」、『UP』一九七五年一月~十二月号。「表現論から見た定家の歌十首解読」、『國文學』一九八一年十二月号)。
代表歌にこだわる必要はないと思う。作品は完成した時点で作者から独立した存在となる。読者の立場は自由である。この文庫本を手に取られた方々が感興の赴くままにページをめくり、そこここに琴線にふれる歌を見つけて、独自の定家秀歌選を編んでくださればどんなにか楽しいだろうと思っている。