2018年の夏,ちくま学芸文庫の編集の方から一通の電子メールを頂いた.今度,宮寺功著『関数解析』(第2版)を文庫として出版するので,ついてはその解説を執筆してほしいという依頼であった.
『関数解析』は1972年に理工学社から刊行された本であるが,理工学社そのものがなくなってしまい,そのため書店からずっと姿を消したままだった.私自身,この本の第1版で関数解析を学んだということもあって,このまま埋もれてしまうのは大変残念なことだと感じていた.それが文庫として復刊されるというのである.何ともうれしい知らせであった.
ところで,本の解説を書くというのは,ブログや雑誌で書評を書くのとは違い,なにしろその本の一部分になるのであるから,責任は重大である.じつは宮寺先生は私の母校である早稲田大学教育学部数学専修(現在の数学科)の創設と発展に大きく貢献した方であり,恩師の一人でもある.私のようなものが先生のご著書の解説をお引き受けしてよいものかどうか,かなり迷うところがあった.しかし,私事だがこの4月に三十数年ぶりに早稲田大学教育学部数学科に戻り,奇しくもかつて宮寺先生から教わった微積分の授業を担当している.そんな折,この解説のお話があったのも何かの縁と考え,結局お引き受けすることにした.
ここでは,『関数解析』について,宮寺先生の思い出も交えて解説をしたいと思う.
関数解析とは
まず本書の紹介を始める前に,そもそも関数解析とはどのような分野かを記しておこう.関数解析が生まれたのは20世紀初頭である.フランスの数学者フレッシェ(1906),アダマール(1903),F. リース(1909)らが先鞭をつけ,1932年にポーランドの数学者バナッハが上梓した『線形作用素の理論』により,一つの分野として確立された.関数解析の特徴は,本書『関数解析』の序文にいみじくも要約されているように
「古典的な解析学では,主として個々の関数や方程式の性質を取り扱ってきたのに対し」
関数解析は
「関数の集合である関数空間を考え,そこにおいて定義される作用素(関数空間の各要素に他の関数空間の要素を対応させる写像)の性質を位相的方法により研究し,解析学の理論を展開する」
ものである.位相的方法によるため,かつては位相解析と呼ばれることもあった.個々の関数ではなく,関数の集合を扱うという点が古典解析学と一線を画するものであり,この新しい視点が20世紀以降の解析学の発展の原動力の一つとなった.
関数解析の骨組みを浮き彫りにした本
関数解析はバナッハらの抽象的理論の構築と相まって,解析学のさまざまな分野に大きな影響を与えた.特に偏微分方程式論,調和解析などはおそらく非常に影響を受けた分野といえるだろう.またフォン・ノイマンによるヒルベルト空間論を用いた量子力学の数学的基礎づけの仕事もエポックメーキングなものであった.
このため関数解析の教科書では,しばしば抽象的理論と共に応用も解説する本が多い.これに対して本書は関数解析の抽象的理論を重点的に解説している.いわば窓も壁も取り除いて,関数解析という建造物の骨組みを透かして見せている本であるといえよう.といっても,関数解析の易しい部分だけを取り上げたり,複雑な証明を端折っているというわけではない.丁寧な記述で,かなり深い部分まで切り込んでいる.
飾り気のない導入
一口に関数からなる集合といっても様々なものが考えられる.バナッハの卓見の一つは関数の様々な集合に潜む本質的な性質を見抜き,それを公理とした「Banach(バナッハ)空間」を定義したことである.バナッハ以降の関数解析はBanach空間を主軸の一つに発展したといっても過言ではないだろう.本書はこのBanach空間の定義から始まっている.L. シュワルツによる超関数の理論や弱位相,$\ast$弱位相と呼ばれる位相を視野に入れるならば,Banach空間よりも一般的な位相線形空間の定義から入るのが順当かもしれない.しかし,関数解析を初めて学ぶ者にとっては,位相線形空間の話はいささか一般的過ぎて勉強しにくいきらいがある.その点,本書のように即座にBanach空間に入り,位相に関する議論は最小限に留めるというのも有効な方法である.
しかも本書における導入は極めて直截的である.少し飾り気のある人ならば,Banach空間が導入された歴史やらBanach空間がいかに重要かをほのめかしてから,定義に入るかもしれない.しかし,一切の虚飾を廃して,書き出しはこうである.
1章 Banach空間
§1. Banach(バナッハ)空間の定義
1.1 線形空間
定義1.1. $\Phi$ を複素数体または実数体とする.……
この冒頭だけからも本書の雰囲気がすぐにわかるであろう.
じつはこれが宮寺先生のスタイルである.講義のときもそうであった.宮寺先生の講義をいくつか受講したことがあるが,先生は講義ノートを片手に黒板に向かい,板書しながら「$X$をBanch空間とする」といったように始める.枕も何もない.それから淡々と議論を進め,その日の目玉となる定理にぐいぐいと迫っていく.板書は几帳面な字体で終始くずれることはなく,内容は非常によく構成されていて過不足がない.過不足がないというのは,掛値なく言葉のとおりで,不要な部分もないし,行間もない.つまり板書を読めば,定理の証明が容易にフォローできるのである.本書には宮寺先生のこの講義の流儀がそのまま現れているといえるだろう.もっとも私が学生のときの関数解析の講義は,『関数解析』を教科書としていたが,担当教員は宮寺先生ではなかった.しかし宮寺先生の他の講義はこういった進め方のものであった.
さて,本書は先に述べた冒頭から始まり,線形空間,ノルム空間,Banach空間の定義と若干の位相について解説する.それから Banach空間の代表的な例として数列空間 $(c)$,$(l^{p})$,関数空間 $C[a,b]$,$L^{p}(a,b)$ が挙げられる.
こののち,Hilbert(ヒルベルト)空間が定義される(2.3節).余談だが私がこの本を初めて読んだとき,最初にインパクトを受けたのがこの2.3節に挙げられている定理2.2であった.Banach空間 $(l^{p})$,$L^{p}(a,b)$ の中でHilbert空間になるのは $p=2$ の場合だが,一般にどのようなときBanach空間がHilbert空間たりうるか.当然この疑問が沸き起こる.それに答えるのが次の定理2.2である.
定理 2.2 ノルム空間$X$に$\left\Vert x\right\Vert =\sqrt{\left( x,x\right) }$となるように,内積$\left( \cdot,\cdot\right) $を定義し得るための必要十分条件は,$X$の任意の2点$x,y$に対して \[ \left\Vert x+y\right\Vert ^{2}+\left\Vert x-y\right\Vert ^{2}=2\left\Vert x\right\Vert ^{2}+2\left\Vert y\right\Vert ^{2}% \] が成立することである.
これはP. Jordanとvon Neumannにより1935年に発表された結果である.定理の必要十分条件となっている等式は中線定理と呼ばれるものである.自然な問いに対するこの美しい答えに非常に感銘を受けたことを今でも覚えている.
基本的な四つの定理とその周辺
続いて第2章から第3章において解説されるのは,関数解析の基礎をなす四つの定理である.本に載っている順にあげると,一様有界性定理,開写像定理,閉グラフ定理,Hahn-Banach(ハーン・バナッハ)の定理である.まずキーとなるBaire(ベール)のカテゴリー定理が証明され,続いて一様有界性定理などが証明されていく.Hahn-Banachの定理は,線形汎関数の拡張という解析的な形で解説されている.Hahn-Banachの定理には幾何的な形もあるが,しかし本書では主に解析的な形が扱われ,拡張定理としてのHahn-Banachの定理を読者に印象付けている.
これらの定理,特にHahn-Banachの定理を基軸にして,第4章では共役空間が論じられる.弱収束,$\ast$弱収束,共役作用素が扱われ,Hilbert空間のF. Rieszの定理などもこの章で証明される.さらに第5章では完全連続作用素(コンパクト作用素)と固有値問題に関する議論が繰り広げられる.
第2章から第5章の内容は,関数解析を学ぶのであれば必ず押えておきたい根幹の部分である.そのためここは関数解析の入門書の主要部になるのだが,じつはどのような切り口で話を進めるのかが難しいところでもある.もし応用例を交えて解説するならば,関数解析の有用性を教えることはできる.しかしそのためには結構なページ数を必要とし,なかなか先に進めないというもどかしさを読者に感じさせてしまう.とはいえ応用がなければ個々の定理の意義を説明することは困難である.執筆者にとっては手腕が問われる難所の一つであるといえよう.
ところが,本書では理論と応用の中庸な道を選ぶのではなく,余計な手を一切加えることなく理論重視で,あっという間に関数解析の基本が手際よく解説されていく.料理で言えば,素材の美味さをそのまま引き出す調理法である.私が本書を学んだときの印象を言うならば,ただひたすら理論としての関数解析の面白さを味わうことができた.たとえば,線形部分空間上の有界線形汎関数が,汎関数ノルムを保存したまま全空間に拡張できることなど,応用がなくてもそれだけで感動的であった.本書のおかげで短い期間に関数解析の主要定理を一挙に学べたことは非常によかったと思う.
意外と役に立つBochner積分の解説
本書の中で忘れてはいけないのが第6章であろう.この章ではBochner(ボッホナー)積分が詳しく解説されている.Bochner積分とはBanach空間値関数の積分である.この章は続く第7章の準備を意図して設けられたものと思われるが,Bochner積分をここまで丁寧に,かつコンパクトに解説している和書はあまりない.この章の部分だけでもBochner積分入門として活用できるものである.
作用素半群
そしていよいよ本書のクライマックスである最終章に突入する.ここでは線形作用素の半群,特にHille(ヒレ)・吉田の定理を学ぶことができる.線形作用素の半群の理論は吉田耕作らによって創始された理論であるが,じつは宮寺先生のこの理論への貢献も大きい.たとえば岩波数学辞典(第3版)ではHille・吉田の定理を一般化した定理も含めて,一括して吉田-Hilleの定理,またはHille-吉田-Feller-Phillips-宮寺の定理と呼ばれることがあるとしている.
ところで私が学生であった頃,宮寺先生の周りには多くの作用素半群の研究者が集まり,教育学部数学教室は作用素半群の研究で活気に満ち溢れていた.そういう環境のせいか,私自身は宮寺先生の研究室に所属しているわけではなく,学部のセミナーでは多変数複素解析を学んでいたが,何となく作用素の半群は学んでおくべきもので,最低限本書くらいはマスターしておくべきものという意識がしみ込んでいた.
ところが勉強というのはいつ役に立つのかわからないもので,大学院で多様体上の調和解析を専門にするようになって,E. M. Steinの講義録やS.-T. Yauの論文を読むのに,リー群や多様体上の拡散半群が必要となった.学部のときに線形作用素の半群を勉強しておいたことが図らずも大いに役立った.
話を元にもどそう.線形作用素の半群とはどのようなものかというと,Banach空間$X$上の有界線形作用素の族$\left\{ T(t):t>0\right\} $で \[ T(t+s)=T(t)T(s) \] をみたすものである.さらに$T(0)=I$($I$ は恒等作用素)とし,$t\in\left[ 0,\infty\right) $に関してある種の連続性(定義16.3参照)を仮定したものが$(C_{0})$半群と呼ばれ,本章の主役となっている.
$(C_{0})$半群の一つの重要な例はいわゆる熱半群(heat semigroup)である.これは1次元ユークリッド空間の場合を書くならば, \[ C[-\infty,\infty]=\biggl\{x: x\mathrm{ は }\boldsymbol{R}\mathrm{ の実数値連続関数で,}\lim_{\left\vert u\right\vert \rightarrow\infty}x(u)\in\boldsymbol{R}\mathrm{ が存在} \biggr\} \] として,\[ \left[ T(t)x\right] (u)=\frac{1}{\sqrt{\pi t}}\int_{-\infty}^{\infty }e^{-v^{2}/t}x(u+v)dv\;\left( t>0\right) \] により定義される(例16.3).ここで$C[-\infty ,\infty]$は$\left\Vert x\right\Vert _{\infty} =\sup\limits_{u\in \boldsymbol{R}}\left\vert x(u)\right\vert $をノルムとするBanach空間である.$\left[ T(t)x\right] (u)$ を $t>0$と $u\in\boldsymbol{R}$ の関数とみなすと,微分計算により \[ \frac{\partial}{\partial t}\left[ T(t)x\right] (u)=\frac{1}{4}\frac {\partial^{2}}{\partial u^{2}}\left[ T(t)x\right] (u) \] が得られるが,この関係式は熱方程式である.つまり熱半群は熱方程式の解を与えると考えられる.ここでは天下り的に最初に半群を与え,そこから方程式を導き出しているが,実際には逆に方程式があって,その解を与えるような半群を見つけることが重要である.
Hille・吉田の定理(の帰結)は次のようなものである.$\dfrac{1}{4}\dfrac{\partial^{2}}{\partial u^{2}}$ の代わりにBanach空間$X$ の稠密な部分空間で定義された閉線形作用素$A$を考える.定義など詳細は本書第7章を参照していただくことにして,大雑把に言えば,$A$ が適切な条件を満たすならば,$A$を生成作用素とするような$X$上のある種の$(C_{0})$半群$\left\{ T(t):t>0\right\} $が存在し,(したがって)$A$の定義域に属する$x$に対して \[ \frac{d}{dt}T(t)x=AT(t)x=T(t)Ax \] が成り立つ(正確な命題は定理19.2と系19.3を参照).
本書の締めくくりは§20であり,そこでは$(C_{0})$半群とその生成作用素の諸性質を踏まえて抽象的Cauchy問題が組織的に取り上げられる.
おわりに
以上で『関数解析』の解説を終える.
最後に個人的な思い出を少しだけ書かせていただこうと思う.宮寺先生は私が入学したときのクラス担任でもあり,また微積分の担当教員でもあった.その関係でよく質問に行った.ちょうど大学1年の夏休みが終わったころだったろうか,夏休みにルベーグ積分を勉強したので,ルベーグ積分の本の最後の方で触れられていた関数解析を勉強したいと話したところ,書棚にあった『関数解析』の第1版を下さり,これを読むといいと言われた.それで本書を読み始めたのが,『関数解析』との出会である.その後あるとき,先生が雑談で熱半群の話をされたことがあった.そのとき私が「正規分布ですね」というと,「そうそう」と言って急に上機嫌になられ,さらにいろいろとお話をしてくださった.特に気の利いたことを言ったわけでもないのに非常に上機嫌になられたので,今でも何故かそのときのことが気にかかり,ときどき理由を考えている.
3年生になり研究室の配属が決まり,私は複素解析を志望したので先生の研究室ではなかったが,その後も先生のところにお話を伺いに行くと,いろいろと話をしてくださった.非線形半群の研究を始められた頃のこと,オーストラリアで過ごされた日々,ブルガリアやポーランドでの研究会のこと,比較的外国の話題が多かったように思う.
しかし,大変残念なことに宮寺先生は2017年2月にご逝去された.先生がこの文庫版をご覧になることはない.せっかく文庫になったのに,何とも残念で仕方がない.もしも先生がこの文庫を手にされたら,さぞやお喜びになることだろうと想像している.ただ一抹の不安も感じている.それは多分,いや必ず
「新井君,この解説は蛇足だよ.」
と言われる気がするからである.困ったような顔でおっしゃられるのか,それとも,先生はあまり怒らないかたであったので,にこにこしながら言われるのか,今となってはもうわからない.いずれにせよ,先生には何とかご容赦いただけることを願ってやまない.