これでいい、もしだめでも仕方がない、と自分に対して思えるようになったのは、いつからだろう。少なくとも、十代や二十代の頃は思えていなかった。自分の在りようを漠然と受けとめ、不出来で見苦しい部分も、もう自分だけは許そう。そう体の中で納得が生じた一時が、人生のどこかにきっとあった。
『空芯手帳』を読みながら、その一時の感覚をうっすらと思い返していた。主人公の柴田は小さな紙管製造会社で働く正社員で、部署内で唯一の女性だ。特にそうした雇用契約を結んだわけでもないのに通常の仕事に上乗せして、来客時のコーヒー出しや郵便物の仕分け、贈答品の分配や給湯室の掃除など、部署内の雑務を当然のように押し付けられ、摩耗している。
そんな彼女がある日、ふとした会話の流れで妊娠する。妊娠していてつわりがひどく、商談スペースに残されたカップ(正確には、午後一の来客に出され、商談が終わった後も応対した人間が片づけずに夕方の四時半まで放置され、底に少し残ったコーヒーに煙草の吸い殻が突っ込まれていて悪臭を放つ、なぜか商談に参加したわけでもない柴田が片づけるよううながされるカップ)が片づけられない、と課長に訴えた。そうして柴田の、妊娠を装う暮らしが始まった。
早上がりをして、食事に気をつかい、母子手帳アプリで妊娠の経過を確認し、妊婦らしい生活を送るうちに、柴田の体はどんどん目方を増やし、実際の妊婦に近づいていく。腰痛を改善するストレッチ、ウォーキング、体を締めつけないワンピース。周囲も柴田を妊婦として扱い始める。妊婦として生活し、妊婦として扱われるうちに、柴田の腹になにかが宿る。挑戦的でたくらみに満ちた筋書きに惹かれ、最後の一行まで吸い込まれるように読んだ。
素晴らしいのはこの柴田という、どこの会社にも何人かいそうな、ありふれた勤め人の目に映る日常のとらえどころのなさだ。仕事の内容は、分かる。なんのためにその商品が作られているのかも、分かる。でも結局この仕事をしている自分ってなんなのって思うと、よく分からない。よく分からないけど、同じ案件を説明するために役職ごとに違う資料を用意しなきゃいけなかったり、あちらが悪いこちらが悪いうわー両方間違えてるじゃんみたいなトラブルが起こったりして、なかなか家に帰れない。家に帰って丁寧な食事を作り、映画を観ても、なにが得られたのかよく分からない。よく分からないまま、年月が過ぎていく。
柴田の目に「どうしようもなく本当のもの」として強い印象を持って映るのが、実際に妊娠している女性のせり出したお腹だ。しかし子供を育てる親の多くは、子供を「どうしようもなく本当の他者」と感じることはあっても、「どうしようもなく本当の自分」とは感じないだろう。
なら、それぞれの人生における「どうしようもなく本当のもの」はどこにあるのだろう。柴田の体は嘘を孕み、それを成熟させていく。同じように私たちも自分にとって必要な嘘を、物語を、時間をかけて成熟させ、年月とともに産み落としているのだ。仕事を、食事作りを、映画鑑賞を、子育てを、とらえどころのない日常を「どうしようもなく本当のもの」として咀嚼するには、自分が産んだ物語が必要になる。そしてこの世に生まれた物語は、実体のあるなしにかかわらず、産んだ当人だけでなくその周囲にも影響を与える。さざ波のように、風のように。いつのまにか雑務が分担された、柴田の職場のように。
私はかつて、どんな物語を自分のために産んだのだろう。もしくはこれから、どんな物語を必要に迫られて産むのだろう。過去や未来へ思いを馳せる、余韻の深い本だった。