ミシェル・フーコーが1960‐70年代に行った文学をめぐる講演が、このほどちくま学芸文庫より刊行されました。文学に関する博大な教養と鋭利な読解に読者は目を瞠ることでしょう。翻訳をされた柵瀬宏平氏が、訳者解題には書ききれなかった「発見」を綴ってくださいました。
このたびちくま学芸文庫から刊行される『フーコー文学講義――大いなる異邦のもの』は、1960年代から70年代初頭にかけてフーコーが行った文学に関する口頭発表を活字化したものである。そのため繰り返しや中断も多く、テクストとしては必ずしも読みやすいものではない。また撞着語法も頻出し、翻訳は予想以上に難航した。加えてフランス語原著の校訂にも問題があったため、訳者は少なからず当惑を覚えた。しかしテクストを前に頭を悩ませるなかで、発見もあった。それはフーコーにおける文学論と真理論の密接な関係である。
まず本書第二部の「文学と言語」と題された二回の講演を見てみよう。そこでは文学は19世紀に誕生したというテーゼが提示される一方で、19世紀に文学とともに成立した文芸批評が、20世紀半ばに大きな変貌を遂げたことが示されている。こうして展開される文学の考古学は、『言葉と物』を補完するものである。『言葉と物』においてフーコーは、近代のエピステーメーを考察するなかで、言語に関しては、形式言語、歴史言語学、文学を挙げながら、もっぱら言語学の分析に終始した。これに対して、「文学と言語」講演は、文学的言語を考察の俎上に載せ、その様態を規定している。それはコードとメッセージを短絡させ、既存のコードを転覆させることであり、フーコーはこうした言語のありようを秘教的言語と呼んでいる。
ところで1980年代にフーコーは、古代ギリシア・ローマにおけるパレーシアという概念に着目し、これを真理の語りという言語行為として分析した。コードを前提とすることではじめて実効性をもつ通常の言語行為に対して、パレーシアはそれが発せられることで既存のコードを転覆させる特異な言語行為である。こうしたコードとメッセージを短絡させるパレーシアの特性は、秘教的言語としてとらえられた文学的言語、すなわちフィクションの言語に通じるものなのだ。
さらに第三部に収録された同じく二回のサド講演をとりあげよう。まずフーコーは、ジュリエットが友人にリベルティナージュの手ほどきをする『悪徳の栄え』の一節を読解しながら、サドのエクリチュールを分析する。続いて、「神は存在しない」、「魂は存在しない」、「犯罪は存在しない」、「自然は存在しない」という非存在に関する四つの命題を軸として、サドの言説の特異な体系を考察する。二つの講演に共通するのは、サドにおける欲望と真理の関係に対する関心である。とはいえそこで問題になるのは、欲望に関する真なる言説のスタティックな構成ではない。フーコーは、サドの反復的なエクリチュールが、外的な現実との対応如何にかかわらず、欲望をそれ自体で実効性をもつ真理を生産するものとみなす一方で、非存在に関する四つの命題が、リベルタンの邪悪な欲望とその実践を通じてはじめて、真なるものになると論じる。つまり、問題なのは、欲望と真理とが同一の次元において互いが互いを生み出す、ダイナミックな過程なのである。サドをめぐるこうした議論は、1970年の『〈知への意志〉講義』を端緒とする、真理の系譜学の先駆ともなっているのだ。
こうしたフーコーの真理と文学をめぐる議論は、アリストテレス論理学に遡る真理の対応説との対抗関係において構築されている。しかし、ミメーシス論を核とする『詩学』を考慮すると、フーコーによる対応説に対する異議申し立ては、アリストテレス的なフィクション論の地平において解釈することもできよう。なぜなら『詩学』においては、反復される行為の記述可能性それ自体が、文学的言語を可能にしているからである。『フーコー文学講義』において展開される真理論と文学論、あるいは真理とフィクションの関係をめぐる考察のうちには、古代ギリシアに淵源する詩と哲学の古き諍いが見いだされるのかもしれない。本書を翻訳しながら、そんなことを考えた。