単行本

『言葉を失ったあとで』まえがき

上間陽子さんとの対談集『言葉を失ったあとで』の重版ができました。それを記念して、まえがきを公開します。

 この一冊が誕生するきっかけは、トークイベント「言葉を失ったあとに」(二〇二〇年一一月二七日、青山ブックセンター本店)で上間さんとお話ししたことだった。異例ともいえる速さで申込者が集まったことに驚いたが、オンラインとはいえ初めて顔を合わせたようには思えない充実の一時間半だった。PCの画面越しに、猫とお嬢さんが悠々と登場する対談も初めてだった。
 その後編集者より対談の企画が持ち上がり、沖縄と東京を結んで四回お話しした。最後の一回は、上間さんが池田晶子記念「わたくし、つまりNobody 賞」の受賞のため上京されたので、筑摩書房で行った。終了後、蔵前のイタリアンで、楽しくおしゃべりもした。
 本書の構成は、実際に話した順番に沿った全六章から成っている。最初のトークからほぼ一年近く経って、こうして一冊の本になったことは心よりうれしい。
 ずいぶんにたくさんのことを話してきたのに、実際に上間さんにお会いしたのは、第六回の対談が初めてだった。画面上ではお顔を拝見していたが、二〇二一年五月一一日、筑摩書房会議室に向かう狭い通路ですれ違いざまに小柄な女性から挨拶された。マスク姿だったので、軽くこちらからも挨拶を返して会議室に入った。
 てっきり編集者だとばかり思っていたその女性が、実は上間さんだった。オンライン上ではいっぱい話していたはずなのに、マスク姿のせいかまったく目立たず、筑摩書房という背景に溶け込んでしまっていたのだ。あまりに素気ない対応をしたのではないかと、対談冒頭で改めて自己紹介した際に、あやまったことを覚えている。

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 振り返ると、まるで私がカウンセリングを受けていたようだった。全部で六回の対談をとおして、上間さんと話しながら、言いたいことが次々と湧いてきて、「ねえ、聞いて、聞いて」ともどかしくなるのだった。それは不思議なことだった。
 遠い昔の子ども時代のこと、苦しみの多かった二人の子育て期のこと、これまで活字にしたことのない個人的な経験が、ここでは初めて公開されている。ふだん、カウンセラーが自己開示する必要なんかないと考えている私なのに、どうしてなのだろう。
 対談の収録が終わるたびに、あれ、こんなはずじゃなかった、なんだか話しすぎてしまったぞ、と思ったのだが、それは嫌な感じではなかった。職業柄、個人的な関係でも仕事でも、自分はできるだけ聞く側にポジショニングするようにしているのに、なぜか上間さんと会うと毎回どんどん話したくなってしまうのだった。

上間さんの著書『裸足で逃げる』を初めて読んだとき、衝撃を受けたことを思い出す。多くのルポライターが熱を込めて描いてきた沖縄の女性たちの姿を、それまでも知らなかったわけではない。カウンセラーとして、同業者とのつながりで得た様々な情報や知識も持っていたつもりだった。事実や実態といったレベルでとらえれば、それほど新しいことではなかったが、あの文体と言葉づかいは、これまでに読んだことのないものだった。登場する女性たちと上間さんとの関係は、調査対象と調査者というだけなのに、浮かび上がってくるのは痛切としか言いようのない、それこそ言葉にならない何かなのだ。
 深い底の部分では怒りが渦巻いているのに、四方八方からの張力によって、それは流れそうで流れない涙のようにギリギリのところでとどまっている。それはまさに言葉を失うとしか言いようのない現実への直面に思えた。そこから這い上がるように言葉を新しく獲得していく姿、その張り詰めた感じが、読む私の胸を打ったのである。
 上間さんが描く沖縄の少女(女性)たちの性暴力被害と、私がカウンセリングでお会いした女性たちの性暴力被害は、ほとんど同じだった。わかりきったことかもしれないが、そのことが驚きだった。では、そのとき私は果たして言葉を失ったのだろうか。
 カウンセラーであるということは、言葉が武器であるということだ。武器なくして、ひとときも生き延びることなどできない。もっとソフトに言えば、言葉は商売道具なのである。言葉なくしてカウンセラーという生業は成り立たない。もう五〇年以上も、そうやって生きてきた。
 では、私はどこに自分の言葉の根拠を求めたのだろう。偉大な先人たちの構築した理論に、目の前の現実を当てはめることはできなかった。単に勉強不足だっただけかもしれないが。何かが違う、納得できない、そんな違和感がカウンセリングのたびに私を襲った。その違和感がしつこく、ずっと私を駆動し続けた。いったい何だろう、どのように言い表せばいいのだろう……と。心理学や精神医学といった専門領域で使われる言葉では歯が立たなかったのである。
 聖域とされた家族のなかでこんなことが起きているのか、元気に見える女性たちが、夫や父、兄、祖父からどのようなことをされてきたのか……。グループカウンセリングで、個人カウンセリングで、彼女たちの語りを聞きながら、たぶん、私も言葉を失ったのかもしれないと思う。そんなとき、新しい言葉を与えてくれ、パラダイムの転換を許してくれたのは、社会学や哲学、女性学だった。そこから得た言葉を自分のものにすることで、かろうじて、目の前に居る人たちにカウンセラーとしての役割を果たしてきたと思う。
 こんな私が臨床心理学の一角を占めてもいいのだろうか、という思いはぬぐえない。対談中に、私の存在が臨床心理学への信頼の基本になっていると上間さんが語る部分があるが、うれしくもあり、ちょっぴり複雑な思いがする。

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 対談でなんども語られたのが、性被害については新しい教科書が必要だということだ。言い換えれば、性被害について正面から対峙すれば、言葉を失ってしまうということではないか。なぜなら、被害を代弁したり、被害を叙述する言葉などないに等しかったからだ。これまで使われてきた言説や常識は、被害を受ける側に対する無理解に満ちており、被害者視点を欠いたままだったということがようやく理解されつつあるのは、被害者による告発が続いたからだろう。
 昨年来のコロナ禍で、いくつかの団体におけるセクハラが表面化した。社会的に有意義で「よきことをなす」と信じられ、社会正義を体現していると思われている人や団体においてセクハラが起きていたことが次々とネット上で告発され、炎上したのである。感染拡大防止のために直接的な対面が避けられるようになり、間接的なネット上の書きこみの占める位置が、相対的に浮上した。今後もSNSを通じてネット上で告発する匿名のひとたちは減らないだろう。
 こう書くと、冤罪だってあるし、言葉狩りではないかなどと批判される。しかし対談でも述べているが、セクハラや性被害の深刻化は、地震の揺れのようにその瞬間に起きるわけではない。その経験がどのように聞かれるか、によって、つまり周囲の誤解と無理解によってどんどん雪だるまのように膨らみ、倍加していく。限界が訪れて告発するまでに長い時間がかかるのは、彼女たちの経験を聞き、被害を認め、言葉を与えてくれるひとが少ないからだ。

 もうひとつ、対談では加害者(彼女たちに被害を与える男性たち)についても多くが語られている。多くの先進国ではすでに加害者臨床の理論・実践は進展しているが、日本では法整備も進んでいない。こんなにIT化が進んでいるのに、性暴力に関する常識は明治のままだということすら認知されていない。
 本書では、上間さんの問いかけに触発されて、加害者臨床について乏しいながらも私の実践経験に裏打ちされた内容を述べている。日本ではまだ実践例が少ないため、そこだけ抜き取っても他に類を見ない内容になっていると思う。
 この対談をとおして、あらためて気づかされたことがある。それは、被害に関して語る言葉を獲得しなければ、加害についても語ることができないということだ。現実には加害がなければ被害はないのだが、定義としては逆である。被害者の告発によって、初めて加害者が立ちあがるのだ。
 日本でDVや性暴力の加害者がカウンセリングや相談の対象になっていないのは、被害者支援がそれだけ貧困だということだろう。言い換えれば、多くの女性が受けてきた性被害について、新しい言葉による新しい教科書(的なもの)ができることで、性加害(男性の性暴力)についても対応できるようになるのではないだろうか。そうでなければ、加害者である男性の自虐的な反省モードか、それとも被害者を噓つき呼ばわりするかの不毛な二者択一しかなくなるだろう。

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 ともに多くの人たちの言葉を聞いてきた二人だが、本書を読んでいただければわかるように、二人の間には大きな違いがある。よく泣く上間さんと、まったく泣かない私。年齢も、育った環境も、専門分野も方法も背景も、まったく違う。それなのに、上間さんの言葉には違和感がなかった。それがなぜなのかは、お読みになった皆さんにも考えていただきたい。
 違いが大きいからなのか、上間さんの質問はすごい。短いがポイントを衝く質問に、私はいつもしびれてしまった。後期高齢者になったこともあるが、どこかでもう私の語る言葉を対等に正面から聞かれることはないのでは、と思っていた。そんな不遜な思いが、毎回あの質問によって覆される。つねづねカウンセリングは質問が命と思っていたが、それが証明される思いがして、ほんとうに気持ちがよかった。
 だから、私は安心して話しすぎるくらいに語ったのだろう。かなり突っ込んだ話をしながらも、あとに残ったのは、とびっきりおいしいものを食べたような深い満足感だった。
 繰り返しになるが、本書は、全六回の対談をとおして私が上間さんのカウンセリングを受けているような気持ちになった、そんな珍しい一冊である。
 多くのみなさまに、本書が届きますように。そして上間さん、ありがとうございました。