ちくま学芸文庫

「みずから為(す)る」と「おのずから成る」と
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』自著解題

思想や宗教、文学など幅広い領域を行き来しながら、日本人の発想の基本を追究した書『「おのずから」と「みずから」』。このたびの文庫化を機に、著者・竹内整一氏が、「自(ずか)ら」という言葉に込められた意味についてあらためて光をあてます。

 「自粛」は、近代日本の和製漢語である。辞書には、「自分から進んで行ないや態度をつつしむこと」という語義で、たとえば、

 自粛自粛といひて余り窮屈にせずともよしと軍部より内々のお許ありしと云ふ(永井荷風『断腸亭日乗』)

というような例が挙げられている(『日本国語大辞典』)。
 自粛とは、まずは「自(みずから)-粛す」という、自分から慎む意である。が、この初期語例自体が示しているように、じつは、自分の意志というより、その他の要因によってそうしているという実態がある。それを引き締めたり緩めたりするのは、軍部の、しかも内々のお許しがあったりなかったりしてのことである。そこではそれは、お上が、世間が、みんながそうしているからそうしているというような「自(おのずから)-粛す」といった方がふさわしい意味合いの言葉になっている。
 あるいは、事情はすこし違うが、たとえば、「自発」というような言葉。これは、ふつうに「自発的に行う」というように、「みずから進んで行うこと」の意味で、中世のむかしからそう使われてきている。
 が、この言葉が「自発の助動詞」などと使われる場合には、「おのずから発すること」の意味である。自発の助動詞とは、思われる・感じられるなどの「れる・られる」であるが、それは、「みずから」が否定しようが抑えようが、どうしてもそう思われてならない・感じられてならないという自発、つまり、「おのずから」発する・起こるという意味である。
「みずから進んで行うこと」と「おのずから起こること」と、この、かなり違うはずのことを、日本人はともに「自発」と言ってきたのである。「自粛」の例も合わせて、このようなことは、「自」という字を、「おのずから」とも「みずから」とも訓んできた日本語、日本人には、どこにでも見いだせる問題事象である。われわれは、今なおふつうに、自分が努力・決断したことでも、「結婚することになりました」「就職することになりました」と言っているのである。
「みずから為(す)る」と「おのずから成る」は、「自粛」が時折そうなりやすいように、ややもすれば、前者が後者に飲みこまれてしまうことがある。そのときそれは、まさに、当事者不在の成りゆき主義である。「無責任の体系」、「空気」、「同調圧力」「見えない制度」等々と、批判されてきたことである。
 かといって、たとえば「~することになりました」というような言い方すべてが、そうした無責任な成りゆき主義で語られているわけではない。結婚という事態についていえば、結婚する相手に〝出会う〟ということ自体「みずから」の力だけでできることではないし、また出会いのみならず、その後の幸・不幸のさまざまな出来事や、人々の助けとか、けっして「みずから」の力だけではない、もろもろの働きが相俟って、やっと結婚という事態にいたりつくのである。それをわれわれは「結婚することになりました」と表現しているのでもある。
「我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもっている」(三木清『哲学入門』)。この世の中や人生のさまざまな出来事というのは、「みずから」の営みと「おのずから」の働きの「あわい」で起きていると考えられるということである。中動態という面白い問題関心も、ここに重ねて考えることができる。
 九鬼周造は、日本の思想文化の大事な要素として「自然」「意気」「諦念」の三つをあげている(「日本的性格」)。「自然」という「おのずから」と、「意気」という「みずから」、そして、それらを見きわめる「諦念」という「あきらめ」とが、われわれの発想の基本性格にあるというのである。

2023年2月22日更新

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竹内 整一(たけうち せいいち)

竹内 整一

 

1946年長野県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科倫理学専攻博士課程中退。東京大学名誉教授。専門は倫理学、日本思想史。日本人の精神の歴史を辿りなおしながら、それが現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。主な著書に、『魂と無常』(春秋社)、『花びらは散る 花は散らない』『日本思想の言葉』(角川選書)、『「やさしさ」と日本人』(ちくま学芸文庫)、『ありてなければ』(角川ソフィア文庫)など。