さて、本書を3回読み、付箋を貼り、線を引き、メモを書き込んだといったが、この『すべての雑貨』を思い浮かべる時、実は何もマークをつけていない所ばかり思い出す。それは例えば、三品青年が旅館で虻(あぶ)を屑籠(くずかご)で捕え、上からポットの熱湯をぶっかけて熱殺するシーン。声をあげて笑ってしまった。あるいは、古いジャズがかかる車中、父親の運転に揺られ、祖父母の家から帰宅する三品少年の描写は、静かで美しく、どこか胸が苦しくなる。もしくは、国立にある一橋大学の小さな通用口のことを読者は覚えているだろうか。恐ろしいことに、私の実家はそこから歩いて十分ほどのところにある。大人は身を屈めないと通ることができない小さな通用口を、とてもよく知っている。そこをくぐると、雑貨屋を始めたばかりの、鬱屈とした日々を送る三品さんが研究棟の階段でカップラーメンを食べている。些細で、小さな時間が滞留している。思い出す所はまだまだある。路地裏でコーラをがぶ飲みして吐き出すウィレム・デフォー、ショスタコを愛するジム、一円玉でしらす和えを作り、千円札を炒める工藤冬里さん。レゴを預かってくれたおでん屋の息子氏も忘れてはいけない。彼らは社会の強者ではないかも知れないが、敗者でもない。目まぐるしく加速する世界の中を、小さな足音で、ゆっくりと違う速度で歩いている。
本書を読めば読むほど霞が深くなると感じるというのは、こういった場面や人々を見ていると、恐ろしいほどのスピードと、貪欲さと、強大な力を持ったネットによる情報の一元化=世界の雑貨化の中で、小ささや、遅さといったものが確かに息づいていて、スッと雑貨化の網目をくぐり抜けるような印象があるからだ。雑貨感覚では捉えることができない、付箋のタグ付けから、逃れ、滑り落ちていくもの。
「生きているかぎり、哲学と歴史を手に、じぶんが立っている足元を疑いつづけることを放棄してはならない」(168頁)限り、常にむなしい思いをすることになるだろう。三品青年が世界一長いすべり台でケツをびしょびしょに濡らしながら、むなしさの中で滑空していくように、『すべての雑貨』は雑貨化する世界からの、小さく、遅く、むなしく、切実な遁走(とんそう)といえるだろう。
※2023年5月24日に、荒内さんの所属するバンドceroのニューアルバム「eo」がリリースされます。詳しくは、ceroの公式ウェブサイトをご覧ください。
https://cero-web.jp/