筑摩選書

それぞれの仏教、さまざまな解釈
『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』自著解題

布施、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔。それぞれの始まりと展開をひもとく『悟りと葬式』は、同時に、インドから日本にいたるアジア各地のさまざまな仏教を解明していく試みでもあります。「弔い」を凝視することで、各地の仏教を辿る本書。「PR誌ちくま」に寄せた、著者・大竹晋さんのメッセージをご覧ください。

 大学生になって思想というものに興味を持ち始めたころ、筆者は正直なところ仏教を敬遠していました。というのも、仏教はあまりに多様であって、どう手を付けたらいいかわからないように思われたからです。
 そもそも、仏教の開祖、ブッダは紀元前五世紀ごろインドにおいて死去し、伝承によれば、その直後に彼の教団は仏教――仏説――を三蔵というものに編纂したのですが、彼の死後百年ごろから教団は諸部派に分裂し、部派ごとに独自の三蔵が形成されるようになりました。さらに、紀元前後ごろから、諸部派の三蔵のうちにない、大乗経という新たな経の群れも出現し、諸部派のうち、大乗経を支持する諸学派において、三蔵に加え大乗経が併用されるようになりました。
 つまり、インドにおいては、部派ごとに独自の三蔵があり、学派にはそれに加え大乗経があったのであって、いわば、部派/学派ごとにそれぞれの仏教があったのです。アジア各地においては、それらに対し後世の人師によってさまざまな解釈が行なわれ、こんにちの日本においては、それぞれの仏教とさまざまな解釈とがまとめて仏教と呼ばれているのが現状です。
 ですから、ある論題についてひとくちに「仏教ではこうだ」と言うことはきわめて困難なのです。かつて、大学生であった筆者が仏教を敬遠していたのも、そのあたりがきわめて困難なことに対し、恐れをなしていたからなのでした。
 ですが、筆者は何かしら仏教に縁があったようなのです。大学生になって仲良くなった友人が大きな仏教美術店の跡取り息子で、長期休暇のたびに彼の家にお邪魔して、つれづれなるままに書棚にあるさまざまな仏教書を拾い読みしているうちに、何となく、それまで上記のような理由から敬遠していた仏教に、どう手を付けたらいいかわかるような気がしてきました。そうしてきますと、今度はだんだん仏教が好きになってきて、大学院生となって仏教に親しむようになりました。そののちは、仏教好きが昂じて、ついにはみずから仏教書を書くようになって、現在に至っています。
 筆者は、もともと、前述のように、ある論題についてひとくちに「仏教ではこうだ」と言うことがきわめて困難なことに対し、恐れをなしていましたから、仏教に親しむようになってからは、ある論題について「○○の仏教ではこうだが、××の仏教ではこうだ」と違いを整理することが好きです。仏教をわかることとはアジア各地におけるそれぞれの仏教の間の違いをわかることではないかと筆者は思っています。
 今回の拙著『悟りと葬式』もそのような思いから書いた本です。日本に暮らすほとんどの人にとって仏教に触れる機会は葬式ですが、本書は、布施、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔という、葬式絡みの六つの論題について「○○の仏教ではこうだが、××の仏教ではこうだ」と違いを整理し、インドから日本までの展開を跡づけています。
 仏教と葬式との関係にはわかりにくいところがあります。そもそも、出家者の悟りのための宗教として機能していた仏教が在家者の葬式のための宗教としても機能するようになったのはなぜか。本書はその疑問に対し、アジア各地におけるそれぞれの仏教に共通の背景を見いだして、回答を提示してもいます。
 仏教と葬式との関係に対しては、いわゆる葬式仏教を批判あるいは擁護する論者によって、一般書やインターネットにおいてさまざまな理解が提示されています。ただし、それら理解は、それぞれの仏教を区別していなかったり、それぞれの仏教を誤解していたりして、かならずしも正確ではないようです。本書は葬式と仏教との関係に対する正確な理解に近づくことを目指しています。「○○の仏教ではこうだが、××の仏教ではこうだ」と違いを整理して、全体の流れとして「仏教ではこうだ」と言えるように努めました。葬式を行なうすべてのかたがたにお読み頂けると幸いです。
(おおたけ・すすむ 宗教評論家/仏典翻訳家)

2023年5月3日更新

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