友人たちから切羽詰まった相談の電話がかかってくることがある。これまで誰にも言えなかったDVの被害。今晩、彼に殺されてしまうかもしれない。そうした話を私は「へえ」と相槌を打ちながら聞き流す。「今すぐ飛行機のチケットを買って、海外に逃げれば?」と冗談めかして言うと、相手は笑う。その間、手元ではずっと支援団体の情報を検索し、いくつかの情報を伝える。電話を切った後、手が震えていることに気づく。数日はDV殺人事件のニュースをチェックし、彼女の名前がないことを確認して、まだ生きていると思い、ほっとする。
「たとえ、彼女が死んでも、それは彼女の人生だ」
小西真理子『歪な愛の倫理』は死に突き進む被害者たちの生き様を肯定しようと試みる。DV被害者、子に暴力を振るわれる母、薬物依存者、自傷行為を繰り返す人たち。支援者や医療者たちは、かれらの人権を侵害しないように配慮しつつ、なんとかして死という結末を避けようと奮闘している。他方、自ら命を危険に晒すような状況に飛び込んでいく、正気とは思えない人々の側に小西は立つ。かれらには、命を賭けて守りたいものがあるという。それが「歪な愛」と名付けられた関係だ。
小西は「歪な愛」の中心に「自分が特別な人だと認識する特定の他者からの執着的な愛情」を据える。「自分は生きている価値がないし、死んでしまいたい」という希死念慮に取り憑かれている人々は、誰かに狂気じみた愛を求めることがある。かれらはDVやストーカーのような暴力的な関係に陥って初めて救われる。非常に危険な状態だ。だが、小西は当人たちが「歪な愛」の関係にとどまることを肯定する。たとえ、結果として死に至るとしても、かれらの選んだ生き方を言祝ごうとする。
本書の最後で私の『当事者は嘘をつく』という本が批判的に参照されている。私もまた、性暴力の被害者であり、希死念慮に苦しんできた。同じ苦しみを抱える仲間たちとともに生き延び、今に至る。そのなかで私は、友人が自死したことに触れ、彼女の望んだ「死」やその願望を肯定できなかったと綴った。それに対し、小西は「死んでいく者たちの願望や死そのものをどうしても否定したくない」と述べる。そして、こう続ける。
「死を肯定も否定もせずに、その人の人生を判断したり評価したりするのとは別の仕方で、亡くなった人の存在そのものや、確かに生きぬいた姿、そして、もしその人が身近な他者であったとするならば、その相手が自分に与えてくれたり残してくれたりしたものを(よいものも悪いものもまとめて)受け止めて、肯定することなのではないだろうか」
この次元でならば私は友人の「死」を肯定できる。小西の主張は非常に健全であるし、全面的に同意する。
私が彼女の願望を突っぱねたのは、「私はあなたと一緒に死ぬことはできない」と思ったからだ。私も「死んだほうが楽になる」と何度も思ったが、途中から「ここでは死ねない」と腹の底から意欲が湧いてきて生き延びた。それは、死へ突き進む彼女に背を向けたことを意味する。
「あなたとは一緒に行けない」
私はサバイバーになってしまったから、死や暴力に向かう人たちを見送ることになる。命ある者は「生きる」か「死ぬか」のどちらかの状態しかなく、両方は選べない。小西は生き延びるという言葉に対し、「死者と生者の世界のあいだにある僅かなつながりからも死者を切り離してしまうような響き」を指摘する。その文学的な示唆は理解できても、「彼女がここにいない」ことは、私にはどうしようもない断絶としか感じられない。彼女が亡くなって十年以上経つのに、「こっちに来て欲しかった」といつまでも執着を持つのは、私の歪な愛かもしれないとは思う。
本書は読者に「救えなかった誰か」のことを想起させる一冊である。
一緒に死ねなかったから、サバイバーになった
小西真理子『歪な愛の倫理』書評
『当事者は噓をつく』などの著作がある小松原さんが、本の内容に応答する書評を寄せてくださいました。