はじめての哲学的思考

第5回 「一般化のワナ」に注意しよう

      ——哲学的思考、その前に①

 哲学的思考の“奥義”をお伝えする前に、今回は、その一歩前の思考法についてお話ししたいと思う。
 ポイントは二つある。かつて『勉強するのは何のため?――僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)という本にも書いたことなのだけど、ここではまたちょっと別の角度から、改めて述べることにしたいと思う。
 一つは、「一般化のワナ」に陥らないという話。もう一つは、「問い方のマジック」にひっかからないという話だ。
 今回は、まず前者についてお話ししたい。

1.一般化のワナ

“経験”に要注意

 はじめに、次のようなテーマについてちょっと考えてみよう。
 僕たちの社会には、生まれた家庭のちがいによって、その後の社会的地位に大きな差が出てしまうということがある。
 たまたまお金持ちの家に生まれたおかげで、幼いころからさまざまな教育の機会に恵まれ、大きな社会的成功を収めることができた人たちがいる。でもその一方には、たまたま貧しい家に生まれて、満足な教育を受ける機会も得られず、その日暮らしの生活を余儀なくされている人たちがいる。
 そんな社会を、みなさんはどう考えるだろうか?
 僕たちは基本的に、こうした問題を自分の“経験”をもとにして考える。
 お金持ちの家に生まれた人なら、その恵まれた“経験”を当然のことととらえて、社会はそもそも不平等なものだと主張するかもしれない。
 あるいは、同じく裕福な家庭に生まれた別の人は、社会の不平等について見聞きした “経験”を通して、そんな社会を是正する責任を感じるかもしれない。
 貧しい家に生まれた人は、そのつらい“経験”から、不平等な社会を激しく断罪することもあるだろう。その一方で、また別の人は、努力に努力を重ねて貧しさからはい上がった“経験”から、貧しい人には根性が足りないと言って批判するかもしれない。

 だれもが、経験からしか物を語れない。だからそのこと自体は、特に問題というわけじゃない。
 でも、僕たちがそうした自分の経験を過度に“一般化”して、まるでそれが絶対に正しいことであるかのように主張したとしたら、それは大きな問題だ。
「貧しい奴らは努力が足りん!」「自己責任だ!」とか、その反対に、「金持ちはみんなけしからん!」とか、そんな話はあちこちで聞く。
 でもそれは、あまりにひどい経験の“一般化”だと言わなきゃならない。
 どれだけがんばっても、病気や親の介護といったさまざまな理由で、どうしても貧しさからはい上がれない場合もある。稼いだお金を、社会にどんどん還元しているお金持ちもいるだろう。
 にもかかわらず、僕たちはあまりにしばしば、自分の経験を過度に一般化してしまうのだ。

 これを僕は、「一般化のワナ」と呼んでいる。

 対話や議論において重要なのは、こうした「一般化のワナ」に陥ることなく、お互いの経験や考えを交換し合って、どこまでなら納得し合うことができるのか、その“共通了解”を見出そうとすることだ。
 上の例で言えば、「貧困は自己責任だ」とか、「いや、不平等こそが絶対の悪だ」とか、過度の“一般化”をするのじゃなく、たとえば、「どのような平等をどこまで実現すべきなのだろう」といった仕方で、お互いの考えをすり合わせていく必要がある。

 言われてみれば、当たり前のことだ。でも僕たちは、この「一般化のワナ」に、案外簡単にひっかかってしまうものだ。
 国や地方の「有識者会議」なんかですら、自分の経験を過度に一般化する「有識者」はけっこう多い。「私はこんな教育方法でわが子をトップアスリートに育て上げた。だからすべての学校は、この教育方法を取り入れるべきだ!」みたいな感じだ。
 でも僕たちは、自分の経験はあくまでも自分の経験にすぎないんだということを、ちゃんと自覚しておく必要がある。そのトップアスリートには、たまたまその教育法が合っていただけなのかもしれないのだ。

“信念”に気をつけろ

 この連載で、僕は、哲学は物事の“本質”を洞察する思考の方法だと繰り返し言ってきた。
 これを、哲学では「本質観取」と呼ぶことがある。恋の本質とは何か? 教育の本質とは何か? 「よい」社会の本質とは何か? そうしたことがらの“本質”を、上手に観取する、つまりつかみ取ること。だれもができるだけ、「な〜るほど、それはたしかに本質的だ」とうなってしまうような言葉をつむぐこと。それが本質観取だ。
 その具体的な方法については、今後の連載でじっくりお話しすることにしたいと思う。
 今回おさえておいていただきたいのは、この本質観取をやるにあたっても、「一般化のワナ」に陥らないよう、十分気をつける必要があるということだ。

 たとえば、何人かで「教育」の本質観取をしたとしてみよう。
 とりわけ教育は、だれもが受けた経験があるから、多くの人が自分の信念を強固に持ってしまいやすいテーマだ。
 激しい学力競争に打ち勝ってきた人なら、教育とは競争を通した序列化である、などと言うかもしれない。あるいは、学校にひどくイヤな思いをさせられてきた人なら、教育とは子どもを権力に従順な人間にするための監獄である、などと主張するかもしれない。
 もちろん、そうした考えを個人の意見として主張するのはかまわない。でも僕たちは、本質観取をやるにあたっては、それが「一般化のワナ」に陥った意見になってはいないか、たえず振り返る必要がある。そうじゃないと、お互いにお互いの経験や信念をただ表明し合うだけになって、物事の本質を洞察するなんてできないだろう。
 強い“信念”にこだわればこだわるほど、僕たちの本質観取の目は多くの場合曇らされてしまう。本質観取をする時、僕たちは特に、そんな自分の“信念”に自覚的でなければならないのだ。

議論の作法

 何年か前、平均年齢75歳くらいの、これまでの日本経済を率いてきた重鎮の方たちの前で講演をしたことがあった。テーマは、これからの教育を、どう構想・実践していけばいいかというものだった。
 当然、重鎮の方々はこのテーマについて言いたいことが山ほどある。みなさん、身を乗り出して、30そこそこの若僧の話を眼光鋭く聞いてらっしゃった。実におそろしい時間だった。
 ところが、この「一般化のワナ」の話をしたあたりから、重鎮たちの表情が変わりはじめたのに気がついた。
 1時間の講演のあと、質疑応答やディスカッションの時間になると、次々に手が挙がった。そして各々、「教育勅語を復活させるべきである!」とか、「道徳をもっと教え込むべきである!」とかいった持論を勢いよく展開された……のだけど、そうした話を始められる前に、みなさん必ずと言っていいほど、僕にこう言ってくださったのだ。

 「これは“一般化のワナ”かもしれませんがね……」
 「自分の経験を一般化しすぎているかもしれませんが……」

 そのたびに、会場には温かな笑いが起こった。
 たったひと言、でもこのひと言が、本当に大事だと僕はその時改めて思った。
 「一般化のワナにひっかからない」。このちょっとした心構えが、議論をぐっと建設的にする。あの経済界の重鎮たちは、最初にそう言うことで、持論を一方的に主張するのでなく、僕との間に「対話」のチャンネルを開いてくださったのだ。
 自分の信念を、ただ相手にぶつけるのではない。もしかしたらこれがひとりよがりな考えかもしれないということを自覚した上で、相手に投げかける。そうやって、自分の考えの“共通了解可能性”を問う。
 それが、僕たちが対話や議論をする時に、もっとも大事なことなのだ。

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