はじめての哲学的思考

第6回 「問い方のマジック」にひっかからない

      ——哲学的思考、その前に②

2.「問い方のマジック」とは

あっちが正しい?こっちが正しい?

 哲学的思考の初歩の初歩。その第2点目は、「問い方のマジック」にひっかからないということにある。
「問い方のマジック」、それはいわゆる二項対立的な問いのことだ。
 たとえば、こんな問い。

「教育は子どもの幸せのためにあるのか? それとも、国家を存続・発展させるためにあるのか?」

 僕自身は、この「問い方のマジック」で人をあざむくのが好きじゃないので、授業や講演なんかでも、この話をする時、どちらが正しいと思うか手を挙げてもらうなんてことはやらない。
 でも、ここで「はい、子どものためだと思う人?」と挙手を求め、続いて、「じゃあ国のためだと思う人?」なんて聞いたとしたら、“マジック”はいっそう効果的になる。
 そう、僕たちは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」と問われると、思わず、どっちかが正しいんじゃないかと思ってしまう傾向があるのだ。
 読者の皆さんの中にも、「ん~子どものためかな?」「いやいや国のためだろう」なんて考えてしまった人は多いんじゃないだろうか。
 でも、これは文字通り“マジック”なのだ。
 この世に、あちらとこちら、どちらかが絶対に正しいなんてことはほとんどない。とりわけ、意味や価値に関することについてはそうだ。
 にもかかわらず、「問い方のマジック」は、まるでどちらかが正しい答えであるかのように人をあざむく。そして、僕たちの思考を誤った方向へと向かわせてしまうのだ。

 教育は、子どものため「だけ」にあるわけでも、社会のため「だけ」にあるわけでもない。ありていに言うなら、それはどちらのためにもある。だから僕たちは、上の問いを本当は次のように変える必要がある。

「教育は、どのような意味において子どもたちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか?」

 この問いだったら、一定の“共通了解”にたどり着くことはできる。少なくとも、その可能性は見出せるはずだ。
 言われてみれば、当たり前のことだ。でも「問い方のマジック」にひっかかった時、僕たちは、こんな当たり前のことにさえ気づかなくなってしまうのだ。

ニセ問題をしっかり見抜こう

「問い方のマジック」は、日常生活においても、政治の世界においても、はたまた学問の世界においてさえ、うんざりするほどあふれ返っている。
 せっかくなので、いくつか列挙してみよう。

①「人間は生まれながらに平等な存在か、それとも不平等な存在か?」

 今でもしばしば議論される問題だ。でもこれも、実は「問い方のマジック」にひっかかった“ニセ問題”なのだ。
 人間は平等か、否か。これは観点によって何とでも言えてしまう問題だ。たとえば、種としての人間は、そのかぎりにおいては、ある意味で平等と言えなくもない。アフリカのサバンナに丸裸で放り出されたら、僕たちの生存確率はみんなだいたい同じくらいだろう。
 でもその一方で、経済社会を生きる僕たち人間は、現実的に言ってなかなか平等とは言いがたい。前回も言ったように、現代社会では、生まれ育った家庭や地域によってどうしても将来的な差が生まれてしまうし、生まれ持った能力なんかも、完全に平等というわけじゃない。
 要するに、人間は生まれながらに平等なのか否かという問いに、絶対的な答えを与えることはできないのだ。だから、この問いをイエス/ノーの次元で議論するかぎり、僕たちはどこにも行きつかない堂々めぐりを繰り返すほかなくなってしまうのだ。
 そんなわけで、僕たちは、この問いをほんとは次のような問いに変える必要がある。

「僕たちは、お互いに何をどの程度平等な存在として認め合う社会を作るべきだろう?」

 これなら、建設的で意味のある問いだと言える。みんなで考え合うに値する。

 もっともっとくだらない「問い方のマジック」もある。こんな感じだ。

②「10000粒からなる砂のかたまりは、“砂山”か、否か?」

 バカげた問いだけど、実際に、これに似た問題をめぐって大まじめに議論してきた哲学者たちがいる。
 でもこれも、やっぱり「問い方のマジック」にひっかかった“ニセ問題”なのだ。
 何粒から砂山かなんて、そんな厳密な定義、できるわけがない。10000粒の砂のかたまりは、アリにとっては砂山と言えるかもしれないし、箱庭職人にとっても、もしかしたらそうかもしれない。でも、もしもそれが今この原稿を書いている僕の目の前にあったなら、僕はそれを、ただの“ちりゴミ”としてしか見ることはないだろう。
 だからこの問いも、本当は次のような問いに変えるべきなのだ。

「砂のかたまりを、僕たちが“砂山”として見るのはいったいどういう時なのか?」

 これなら一応、多くの人が納得できる“答え”にはたどり着けるかもしれない。問うに値する問いであるかどうかは別にして……。

「問いの立て方」を変える

 最後にもう1つだけ、こんな問いについて考えてみたい。

③「この地球の中で、われわれ人間が生きている理由は何か?」

 きっと、多くの人が考えたことのある問いだろう。
 二項対立的な「問い方のマジック」とは、ちょっとスタイルのちがった問いだ。でも、もしもこの問いが、人間がこの世に生きる“絶対的”な理由を問うものであったとすれば、やっぱり“ニセ問題”と言わなきゃならない。
 そんなもの、僕たちはどうがんばったって分からないからだ。
 人間を含め、あらゆる生物は遺伝子を残すために生きている。そう主張する人もいるだろう。
 でも、それは絶対にたしかだと言えるだろうか? 
 生物学的な説明は、どんな答えも仮説の域を出ない。僕たちは遺伝子じゃないし、遺伝子に聞くわけにもいかないから、その真相を知ることは決してできない。
 私たちを創造したのは神である、だから私たちが生きる理由は、すべて神の意志のうちにある。そう考える人もいるだろう。
 でも、宗教的な説明もまた、やっぱり絶対にたしかな答えとは言えない。もちろん信仰は尊重されるべきだけど、以前(第2回)にも言ったように、哲学的には、それは“たしかめ不可能”な物語なのだ。
 人はだれかを愛するために生きている。そう言う人もいるだろう。
 美しい答えではある。でもそれも、だれにも当てはまる絶対の答えとは言えないだろう。
 人が生きる絶対の理由を、僕たちは知ることなどできない。だからこの問いにかかずらっているかぎり、僕たちの思考はどこへも行きつかない。
 でも、もしもこの問いを次のように変えたなら、それはがぜん意味のある、そして“答え”を見出し合える問いになる。

「人間は、いったいどんな時に生きる意味や理由を感じることができるのだろう?」

 考えるに値する、そして希望のある問いだと思う。

ニセ問題を撃破する

 僕の考えでは、哲学の本領の半分くらいは、以上見てきたような“ニセ問題”を、意味のある問いへと立て直すことにある。
 2500年の哲学の歴史は、ニセ問題との戦いの歴史でもあった。「砂のかたまりは何粒から砂山か?」もそうだし、「生きる絶対的な理由は何か?」もそうだ。
 こうした問題に、哲学者たちは何百年も挑み続け、そしてその結果、これはもしかしたら答えの出ないニセ問題なんじゃないかと気がつくようになった。過去の偉大な哲学者たちは、ほぼ例外なく、ニセ問題をニセ問題だと喝破して、これを問うに値する問いへと立て直した人たちなのだ。

 次回、僕は哲学史におけるニセ問題中のニセ問題をご紹介したいと思う。
 長らくそれは、多くの人にニセ問題と気づかれることなく、哲学者たちの頭を悩ませてきた。
 でも、偉大な哲学者たちは、長い思考のリレーを通して、ついにこれを撃破する道を切り開いた。そしてその撃破の方法こそが、僕の考えでは、哲学的思考の第一の“奥義”とも言うべきものなのだ。
 次回以降、哲学的思考の深い森の中に、いよいよ分け入っていくことにしたいと思う。

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