朴沙羅

証言・行政・当事者性

水俣のいまと記憶の継承

2020年7月25日、天劇キネマトロンにて、水俣病センター相思社の永野三智さんと社会学者の朴沙羅さんによる対談が行われました。主催者の牧口誠司さん、登壇者のお二人の了承を得て、当日の模様を掲載いたします。なお、公開にあたり原稿の確認および加筆修正をいただいています。

――みなさん、ようこそおこしくださいました。第一部ではお二人のお話をそれぞれうかがい、第二部がお二人の対談と質疑応答になります。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。

証拠ではなく証言を 永野三智

 こんにちは。熊本県水俣市から来ました、水俣病センター相思社の永野三智と申します。
 この間、熊本では雨がたくさん降って、家を失ったひとたちがたくさんいらっしゃいます。近くの集落では「もうこの村には住めない」という話が出始めているところもあって、そうした場所の歴史や言葉をどうやって残していくかも、これからの大きな課題になっていくと思っています。
 私は水俣市で生まれました。袋の出月という、150年ほど前から以降に移住してきたひとたちがつくった集落です。この集落の人たちは、自らが水俣市民、熊本県民という意識が低いような気がします。まちの中心地に行くことを「水俣に行ってくるね」と言います。独自の祭りや行事があって、こども会に、婦人会に、老人会に、自治会に、と「会」が多い。月に一回会ってみんなで飲み会をするような集落です。天草から移住してきたひとが多いので、天草の文化が入っています。県境にあるので、鹿児島と熊本と天草の言葉がいりまじって、独自のイントネーションや言葉があります。そういう言葉を残したいと思っています。
 私の所属する相思社は、1969年の水俣病第一次訴訟のあと、その原告の声を受け、支援者の手によって生まれた組織です。水俣病が激発した地域という意味での記憶の場所に建っています。設立は1974年で、水俣病歴史考証館の運営、水俣病関連地案内・宿泊受け入れ、書籍と機関誌の制作、水俣の産物販売、22万点の水俣病関連資料の管理、患者相談が主な仕事となっています。

きっかけは溝口訴訟
 中学を卒業して水俣の実家を離れたときに、ほっとしました。思春期のころから、水俣病は触れたくないものになっていたんですね。水俣を出て5年くらい、出身地を隠して暮らしていた時期があります。少しでも楽に生きたいと思っていました。そのあと「溝口訴訟」(溝口秋生さんが、1977年に死去した母親の水俣病認定申請を、「熊本県が申請から21年後の95年に棄却したのは違法」として、県に棄却取り消しと認定義務づけと謝罪などを求めた。2001年提訴、2013年に最高裁で勝訴が確定)という裁判に偶然出会いました。
 この訴訟の原告の方が、小学校のときの書道の先生、溝口秋生さんだったんです。まったく水俣病と関係ないひとだと思っていたのに、びっくりしました。傍聴席には見知った人たちもいました。私は虫が大好きなんですが、カブトムシのおがくずをもらいに行っていた木工所のおじさんが傍聴に来ていて、自分は患者なんだと赤裸々に語っていました。実家の目の前に住んでいるおばあちゃんの一家は全員が水俣病で、『証言 水俣病』(所収「一家全滅の縁から」)っていう本になっているのを知りました。ときどき挨拶を交わすおばあさんは、水銀の影響で流産を繰り返した人でした。そのとき感じたのは申し訳なさというか、自分はずっと逃げ続けてきたなあ、と。逃げられないひとたちがそこにいるということを知りました。
 もうひとつ、大きかったのは、裁判所に来たら出身地を隠さなくて済む、「水俣のみっちゃん」でいられるという解放感だったんです。わたし、三智なのでみっちゃんって呼ばれてるんです、どうでもいいですね(笑)。暮らしの中で人と接するとき、出身地がバレるんじゃないかって、いつもハラハラしていた。何かを隠して生きるって、どこか負担でした。傍聴へ行って、自分が避けてきたことを突きつけられたことが水俣病を知りたいと思うきっかけでした。
 溝口秋生さんの母親は「私は水俣病です」という申請をして3年後の1977年に亡くなられました。息子の秋生さんは、お母さんは水俣病なんだと、命日に申請先である熊本県に電話をしつづけるんですけど、「生きているひとが先です」と放置されてしまう。
 95年になると、認定申請していたたくさんのひとたちがチッソと和解します。死んだひとたちはどうなったか。その時点で棄却になるんですね。秋生さんは5年くらい悩まれてたんですが、裁判を起こすことにした。その裁判で求めたのが、謝罪と棄却の取り消しだったんですね。人間として扱われなかった自分のお母さんにちゃんと謝罪してほしいと。水俣病と認められたのは、死後36年も経ってからのことでした。

分断させられていった歴史
 私は、水俣病は分断の歴史だと思っています。自分たちで分断したというよりは、分断させられていった。地域のひとたちが翻弄され、私自身も翻弄されているいまがあります。かっこわるいところでもあるんですけど、そういうことも含めて、お話ができたらいいなと思っています。
 水俣市は、熊本県の最南端にあります。むかしは林業、農業、製塩が盛んでした。水俣湾を内包する不知火海(しらぬいかい)はリアス海岸で、小さな入り江がたくさんあります。明治のはじめ、対岸の島々から入り江への移住者が現れました。彼らは漁を生業として暮らしをおくります。漁師の割合は当時の労働人口のわずか3%。彼らの、住む地域、職業、よそ者であるという属性は、定住者から蔑まれることとなり、差別的ニュアンスで呼ばれたりもしました。
 1906年、水俣の隣町では帝国大学で電気工学を学んだ野口遵が「曾木電気」を設立します。金山への電気供給を行う野口は、余剰電力の使いみちとして、「カーバイド工場」の設立を考えます。日露戦争のあおりを受けて製塩が国の専売になって困っていた水俣の有力者は、私財を投じて工場を誘致、野口はカーバイド工場を設立後、日本窒素肥料(のちにチッソと改称。以下、チッソと表記)を設立し、日本初の窒素肥料の生産に取り組みました。
 その後の第一次世界大戦で諸外国との貿易ができなくなり、チッソの肥料は爆売れします。そして次々に化学製品や、軍需品を作り、国策企業として名を馳せるようになりました。
 1924年、チッソは朝鮮半島への進出を決めます。朝鮮総督府から水利権を与えられ、当時の朝鮮人が住んでいた寒村を潰し、次々と大規模な水力発電所と世界最大と言われた肥料工場を造り上げました。大きな街が生まれ、日本人労働者の生活基盤も整備されます。一方で同じ工場で働いた朝鮮人たちの給料は日本人の3分の1、労働時間も長く、管理不足による事故も多かったといいます。野口の「朝鮮人は牛馬として使え」の言葉は有名です。
 水俣でのチッソは1924年頃から排水によって海を汚染するようになります。漁民は抗議をしますが、そのたびにチッソは安い見舞金で片をつけたり漁業権を買い取ったりする。買い取って何をするか、海を埋め立てて工場をつくり、再び汚染水を流す。漁民は幾度も煮え湯を飲まされた。水俣病は起きるべくして起きたんですね。
 チッソは1932年からプラスチック製品の可塑剤や塩化ビニールを作る過程で廃水とともにメチル水銀を流します。ちなみに、チッソは2011年の分社化後、JNC(ジャパン・ニュー・チッソ)という会社で液晶の材料を作っています。今でも世界シェアの35%を占めており、日本の液晶はチッソ由来です。
 1956年、水俣病の症例が市保健所に届け出られた日が水俣病の公式確認とされています。ただし、ひとに話を聞いていくと、戦前から水俣病の被害は出ていたといいます。それは当然で、チッソは1932年からメチル水銀を流していたんですね。1942年ごろから患者さんは出ていますが、おおやけになっていません。
 チッソは公式確認後、3年間続けた猫実験によって原因をつきとめたんですが、患者には、水俣病の原因はわからないと言い続けます。漁民と患者はチッソに対し、補償要求をします。しかし、高度経済成長期の日本にとってチッソは重要な存在です。政府も自治体も学者もマスメディアも総動員でチッソを擁護します。また、当時の水俣市長はチッソの元工場長、市議会議員の過半数がチッソ出身者という味方のいない状況のなかで、漁民と患者は追い込まれます。そしてチッソは見舞金契約(自分たちが原因じゃないということと、原因がわかった場合でもあらたな補償はしないという契約)を漁民・患者と交わし決着をつけました。これが1959年のことです。
 水俣に帰ってきたころ、「なんでこんな安いお金と理不尽な契約で納得したか」と近所のおばあちゃんに聞きに行ったら、「だって、字が読めんやったもんね」って。「弁護士さんでもおらったら違ったよ、あんたたちみたいな支援者と言われるひとがきたのは、いつね。その10年後でしょうが」と言われ、自分の愚問を恥じました。
 そのあと65年に新潟で水俣病と同様の症状が確認されます。彼らはすぐに提訴する。四大公害史上初の提訴でした。しかし、訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続けます。そのことを聞いた水俣の患者たちは、1万円を寄付します。その1万円で新潟の患者は何をしたか。助けを求めに水俣に来るんです。そうして新潟の原告たちが水俣に来るまで、水俣の患者たちは身を潜めるようにしてひっそり暮らしていました。
 熊本の水俣が「終わっている」さまを見た新潟の患者は、愕然としながら「自分たちは絶対に曖昧に解決しない」と宣言します。水俣の患者たちは、「自分たちが曖昧に解決したから、第二の水俣病が起きた」と責任を感じたそうです。そして新潟の患者たちは「一緒に闘おう、連帯しよう」と言う。でも、水俣の患者は「いやだ、とてもじゃない」と断るんです。あのころ、見舞金契約に至るまでの時期、どんなつらい思いをしたか。行政も市民もマスコミも科学者も、だれも味方になってくれなかった。闘って負けたんだ、いまから闘うなんてとんでもないと断るんですけど、そのときに一緒に闘おうと言ったのが、水俣の市民だったんです。
 その間、水俣では安定賃金闘争というのがあって、チッソの社員が自分たちがひどい待遇で働いていることに気がついて、チッソに対して異議申し立てをしていました。そのひとたちも患者たちと一緒に闘うと言ったし、新潟の患者を受け入れて一緒に闘おうと言った主婦、市役所の職員、市議会議員、教員といったひとたちがいました。彼らは新潟の患者を受け入れるために「水俣病対策市民会議」(のちの水俣病市民会議)を立ち上げたのですが、その流れで新潟の患者とともに闘う。結果、1968年に科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定します。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因は曖昧なまま認定しましたから、水俣の場合とは状況が違い、その後も新潟の患者たちの原因追及の闘いは続きました。
 一方の水俣では、チッソの社長が患者に詫び状を持参し、初めて謝罪しました。新潟の患者が水俣へ来て、終わりにさせられていた水俣の運動は再開したのです。そして患者と自らが同じだと気づき、患者と闘えなかったことを恥とする宣言を出す。

裁判を起こさなかったひとたち
 そのあと、国、厚生省は「第三者機関をつくるから補償は白紙委任するように」と患者を説得してまわります。しかし、その額があまりに安い。当時患者と認められていた3分の1が提訴、3分の2が白紙委任します。いわゆる「訴訟派」と「一任派」とに分かれます。
 いま私たちは裁判を起こさなかったひとたちの話を聞いています。裁判を起こしたひとたちや、「自主交渉派」といってチッソの前に座り込んで社長と直接交渉したひとたちについては、たくさんの資料や証言が残っています。だけど、行動を起こさなかった/起こせなかったひとたちの資料は、びっくりするほどないんですよね。じゃあ、これから時代が流れていった先に、そのひとたちの存在はなかったことになるのか。
 そんなことはなくて、たとえばうちの近所の女性はなんで闘わなかったか。自分は17で結婚して漁村に来たと。たくさん子供が生まれて、10年後に夫が水俣病で死んでしまった。そのあと土建の現場で働いて、夫の父親が水俣病で寝たきりなのを介護して、とても闘える状況じゃなかった、生きていくので精一杯だった。親戚からは闘わない派に入ろうと言われて、お世話になってたし、言うことを聞くしかなかったといいます。そういう話も、聞かなければ語られない。それをどう残していくか。「闘えたひとたちは幸せよ。わたしたちはそれがでできんごつ追いつめられとったもんな」という話をちゃんと残していきたいと思っています。

60年前の領収書はありますか
 溝口訴訟の最高裁判決では、申請から40年かかって溝口秋生さんのお母さんが認定を受けます。最高裁から、手先足先の感覚障害があり、疫学的な条件が認められる不知火海周辺に住んでいて、不知火海の魚を食べたということが認められたひとに関しては、水俣病として認めなさいという命令が環境省にくだります。
 翌年、それを受けて環境省はあらたな指針を出すんですね。公的証拠があること、認定患者の家族であることが盛り込まれました。行政が言う認定患者は2280人くらいなんですが、そのほかに「患者です、認めてください」と言ったひとが22000人います。患者たちは第一次訴訟の判決後、さまざまな裁判を提訴し、また座り込みや直接交渉を行いますが、95年、国からの和解勧告に対し苦渋の選択として応じます。その数13000人、関西訴訟を経て、2009年に同じく「和解します」と言ったひとが65000人います。
 私は、当時不知火海周辺で魚を食べたひとたち、水俣病になる可能性をもったひとたちは、20万人はくだらないと思っています。そのなかで行政が認定したのは、わずか2280人。溝口訴訟の判決は画期的でした。厳しい判断基準を批判し、一つの症状と疫学条件が認められたら水俣病と認定するようにというもので、国はそれを受けて新たな指針を出しました。指針では、一見すると認定の条件は緩和されたように見えますが、よく見ると認定患者の同居家族であること、漁師やその同居家族であること、公的証拠をもっていることが新たな条件として加わっている。指針が発表されて以降、行政の疫学調査では、患者のところに行ったときに「60年前に食べた魚の領収書はありますか」という質問が出るようになりました。何を馬鹿なことを、と思うんですよ。
 制度というのは、困ったひとが救われるためにあるはずのものです。これだと、だれも救済されない。60年前は物々交換の世界ですよ。信頼関係のなかでやりとりをしていた。いまの状況だと、聞きとりされたひとたちは疑われていると思ってしまう。でも、そのなかで、「60年前の手紙とか領収書ありますか」と聞いている私がいるんです。私もその土俵に立っている瞬間がある。だから、今回のタイトルを「証拠ではなく証言を」としました。
 はじまる前に打ち合わせで朴さんと話していたら、朴さんはこう言ったんですよ。「証拠を求めるひとにのみ、『証拠ではなく証言を』という言葉が通じる」どういうことって聞いたら、疑うには、特別な理由が必要だと言うんですね。これはあとで朴さんから聞いてほしいですが、すごいことを聞いたなと思っています。
 最後に、この関西には、多くの不知火海周辺住民が、症状を抱えたまま就職や結婚のために移住して来られました。その中で、1982年に水俣病認定を求めて提訴します。たいへんだったと思います。その後、95年に多くの団体が和解をするなかで、関西訴訟は諦めなかった。関西訴訟の原告たちの闘いがあったからこそ、国と熊本県の罪が明らかになり、この65000人のひとたちが声をあげられたんだということを思っています。終わります。 

2020年9月16日更新

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永野 三智(ながの みち)

永野 三智

1983年、熊本県水俣市生まれ。2008年、一般財団法人水俣病センター相思社職員となり、水俣病患者相談の窓口、水俣茶やりんごの販売を担当。同法人の機関紙『ごんずい』に「患者相談雑感」を連載する。2014年から相思社理事、翌年から常務理事。2017年から水俣病患者連合事務局長を兼任。著書に『みな、やっとの思いで坂をのぼる―水俣病患者相談のいま』(ころから)がある。

朴 沙羅(ぱく さら)

朴 沙羅

1984年生まれ。専攻は歴史社会学。単著に『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)、『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、編著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、訳書にポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)がある。1984年生まれ。専攻は歴史社会学。単著に『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)、『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、編著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、訳書にポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)がある。

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