82年生まれ、キム・ジヨン

2倍味わう! 原作小説と映画を徹底解説

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』公開記念

10月9日に全国ロードショーとなった映画『82年生まれ、キム・ジヨン』。公開を記念して、原作小説の翻訳を手掛けた斎藤真理子さんに小説と映画の違い、知っておくとより深く楽しめるそれぞれの読みどころ・見どころを解説していただきました。 原作をもう読んだ方も未読の方も、小説と映画、両方を楽しみたくなること間違いなし!


「憑依」から見る韓国
 また、私が注目したのはキム・ジヨンの憑依現象だ。
 小説の最初の方でジヨンは、自分の母親と、大学時代の女性の先輩に憑依されている。実は、リサーチのためにこの本を初めて読んだとき、このシーンでまず、お、面白いなと思ったのだった。
 ワンオペ育児に奮闘するジヨンは、積もり積もったものを一人では抱えきれなくなったとき、自分にとって大切な二人の女性の声を借りて語りはじめる。この情の篤さのようなものを私は韓国的だと思い、物語の発端としてなかなかだなーと予感したのだ。おどろおどろしい怪奇現象ではなく、人間と人間の関係を描くドラマの始まりとして。
 さらに、韓国ではシャーマニズムが日本より身近にある。「ムーダン」と呼ばれるシャーマンが映画やドラマにもよく出てくるし、小説にもときどき登場する。例えば、『フィフティ・ピープル』(チョン・セラン、亜紀書房)という小説には、息子の奥さんがけがをしたといってなじみのムーダンに相談に行くお姑さんが出てくるが、そのムーダンを息子たちは「母さんの主治医」と呼んでからかう。ムーダンはときに、世の中の理屈では判断できない部分を一緒に考えてくれるプロでもある。だから本書にも、ムーダンが出てきたりするのかなと、ちらっと思った。とにかく憑依が本書の重要なストーリーの牽引役になるだろうとは思ったのだ。
 ところがその後、いくら読んでもムーダンが出てくるどころか、出てくるのは精神科医だし、キム・ジヨンに次の憑依現象は起こらない。伏線はみごとに回収されない。どうもチョ・ナムジュさんは小説家としていちばんおいしいところを投げ捨てて省みないようである。
 だが、このことも、後で考えてみれば「顔がない」のと同じ構造なのだ。つまり、キム・ジヨンに次の憑依が起きたら、物語は面白くなる反面、読者が自分を反映する装置としての役割はどんどん弱まってしまうだろう。映画ではこの点も大きく違っている。  

ラブストーリーが描かれない理由
 映画では、父や弟など周囲の人物の描写が強化されるとともに、キム・ジヨンの憑依現象というモチーフも効果的に利用されて、よりファミリードラマとしての側面が強まっている。
 しかし、その方向へ強く引っ張られすぎると本書のコンセプトから逸脱してしまう。そこで注目すべきことが、小説で意図的に排除されていたもう一つの要素だ。
 実は、この小説に決定的に欠けているのは、色恋である。
 恋だの愛だのセックスだのという男女間の重要とされる出来事が出てこない。色気のないこと甚だしい。
 初めて読んだとき、章が変わったらいきなりキム・ジヨンが結婚のための顔合わせに臨んでいたのでびっくりして、読み飛ばしたのかと焦って前に戻った記憶がある(戻ってもそんな記述はなかった)。結婚式そのものの描写もないし、それがないのだから当然ウェディングドレスも出てこない。
 チョン・デヒョンと知り合ったきっかけはちらっと他のところに出てくるが、お互い、どこに惚れ込んだのか、どんなデートをしたのか、結婚話はどっちがどう切り出したのかなど一切が謎。むしろ、軍隊生活が原因で別れることになった昔の彼氏のエピソードの方が詳しく書かれているほどだ。
 だがそれもすべて、「キム・ジヨンの苦しみは愛によって解決されるものではない」ということを表すためなのである。
 映画では、二人の仲睦まじい様子はよく描かれている。夫はときどき非常におバカなことも言う人物だが、ジヨンにやりこめられて立ち往生し、妻の苦しみを少しでも減らしたいと願う。また、妻の母親の姿を見て、女性たちの苦しみに思いをはせる姿も出てくる。だが、二人の出会いや恋愛のシーンがことさらロマンチックに描かれたりはしない。この点は本の立ち位置をよく踏襲していると思った。
 結果的に、二人の閉じたラブストーリーに寄りかかるのではなく、キム・ジヨンを助けるには何が必要かを考えさせようとしている。
 さらに映画では、韓国現代史へのまなざしが感じられる点が興味深かったが、これは映画のパンフレットに書いたのでぜひ読んでください。

「夫婦愛」や「家族愛」ではない、キム・ジヨンを救うもの
 2019年8月に京都で行われたトークイベントで、チョ・ナムジュさんは、「キム・ジヨンはその後どうなったのか、あるいは、未来のキム・ジヨンはどうなるのか、構想などはありますか」(大意)という質問に答えて、次のように語った。
「一生懸命精神科医に相談しても、周りが変わらないと、治るとは思えません。ですから、悲劇的な結末ですが、(本では)こう表現しようと決めました。
 ここ数年、韓国社会は目まぐるしい変化を見せています。この間も女性たちは、本当にたくさんの声を上げているし、性暴力やセクシャルハラスメントの事件も、いままではあまり表に出なかったものが可視化される段階にあります。ですから、キム・ジヨンは、精神科医の相談のお蔭よりも、この社会が大きく変わったために、ハッピーエンディングに生きていくのかなと思っています。いまはハッピーな生活を続けているのではないかと私は思っています。」
 この答えは、映画『82年生まれ、キム・ジヨン』に対する作家の評価と同じだ。ここで肝心なのは「周りが変わらないと」「精神科医の相談のお蔭よりも、この社会が大きく変わったために」という部分である。社会のシステムが変わらなければ、という主張なのである。
 実は、映画の『キム・ジヨン』だけを見た方が、キム・ジヨンの救いは夫婦愛や家族愛にある、と思ってしまうのではないかと私は少々気になっている。
 なので、一つだけヒントを出しておこう。
 映画の最初の方で、キム・ジヨンが秋夕(旧暦の8月15日の中秋節。一年で最も重要な祭礼の日であり、里帰りして先祖の墓参りをするのが恒例)に一家でチョン・デヒョンの実家に帰省し、夫の母と一緒に祭祀のために大量の料理をするシーンがある。
 そして、できあがった料理を祭壇に供えると、夫と夫の父が先祖の霊に祈りを捧げる(具体的には、大きく「礼」をする)。そのとき、キム・ジヨンと夫の母の二人は後ろに控えて直立し、見守るだけだ。女性は祖先崇拝の儀礼に参加することはできないからである。だから男児がいないと困るわけだ。
 ほんの一瞬だが、このシーンは日常の中の家父長制の風景をさらっと描いている。ふだんはほとんど形骸と化しているかに見えても、年に一度の伝統行事の際には夫と妻の違いが浮き彫りになる。女性たちが料理をしている間、男性たちは何もしない。そうやって料理に明け暮れたあげく、夫の後ろに控えて立つだけの二人の妻の姿は雄弁に何かを語っている。これを無自覚に内包したままの家族愛には限界があるということを、さりげなく伝えているのである。
 韓国人なら見ればわかるシーンだと思うが、韓国の文化を知らないと気づきにくいのでここに言い添えておく。

 最後に一言。本には、キム・ジヨンのルックスに関する描写がほとんどないと書いたが、例外的な描写がもう一ヶ所ある。それはキム・ジヨンの元同僚のカン・ヘスが子育て中のキム・ジヨンの家に遊びに来るシーンだ。
 彼女はキム・ジヨンにプレゼントとしてリップグロスを持ってくるのだが、そのリップグロスについて「私が今、してるのと同じやつ。いい色でしょ? 私たち肌の色が似てるから、合う口紅の色も似てるじゃない」と発言する。ジヨンは「母親だって女なんだからとか、家でごろごろしてないでちょっとはきれいにしなさいよとか、そんなことを言わないのが嬉し」い、と思いながら、グロスを塗ってみる。
 このシーンは、意図的に淡々と描かれた本書の中で、チョ・ナムジュのすぐれた人間観察力、描写力がにじみ出てしまった場面のように感じられた。このような人間どうしの理解といたわりの光景は、顔のある映画版の随所でいっそう細やかに描かれている。  システムを変える努力と、家族を超えた周囲の人へのいたわり。映画の中でキム・ジヨンが踏み出す一歩はその両方に支えられている。本に仕込まれていた「毒」の、その先へ向かうための処方箋である。

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