加納 Aマッソ

第40回「15分あれば喫茶店に入りなさい。」

「らんぷ」がなくなってしまった。新宿西口の大ガード下交差点に面した建物の地下一階にある、古ぼけた老舗喫茶店「らんぷ」。久しぶりにそのビルの階段を降りてガラス越しに店内を覗くと、中はがらんどうで真っ暗になっており、解体された木材だけがわずかに転がっていた。人の気配を失くし、心なしかビル自体もいつもよりひんやりとしている。
「うわ…」と思わず声が出た。ショックでしばらく立ち尽くしていたが、一緒に来た後輩が背中の後ろから「あら、潰れちゃってます?」とあまりにも軽い声を出した。思い入れのない場所の閉店に対する反応としては自然だが、しかし「潰れている」という表現がドンと鈍く私の頭を打った。後輩が事実を言葉にしたことで、らんぷが過去のものになったのだとようやく理解し、猛烈にさびしさが襲ってくる。らんぷでの思い出はもう更新されない。
 大阪で芸人を始めたばかりの頃から、東京のインディーズライブに出演しに来るたび相方と「らんぷ」を訪れた。あの頃はまだ相方というよりも半分友達と旅行しにきたような感覚で、お昼は浅草で観光したり渋谷で買い物をしたりして遊んだ。そして夜21時に新宿でライブを終えると、夜行バスが出発する24時までの間、私たちは唯一遅くまでやっている喫茶店のらんぷでお茶をして時間を潰すのが恒例になっていた。スベった日は一言も喋らず二人でコーヒーをすすったし、ウケた日は子どものようにはしゃいだ。店の隅にはカラオケがついており、そこでいつも店のおばあさんが常連さんたちと歌っていて、接客が適当である代わりに、こちらが騒いでいても怒られなかった。疲れて席で寝てしまった時も、何も言わずにそっとしておいてくれた。
 上京してからもらんぷには足繁く通った。劇場の多くは新宿の東口に集中していて、西口にあるらんぷは他の芸人に出くわすことがなく最高の穴場だった。私はなにか新しいことを企てるたび、仲間をらんぷに呼んで打ち合わせをした。らんぷのテーブルに何度も企画書を広げた。壁には斎藤孝さんの本のタイトル「15分あれば喫茶店に入りなさい。」がでかでかと貼ってあったが、私たちは15分どころか3時間も4時間もいいアイデアが出るまでコーヒー1杯で粘り続けた。そんな希望が灯り続けた、らんぷ。その火がいつの間にか消えてしまった。

「久しぶりに来たら潰れてる、あるあるですねー」と後輩は言い放ち、呑気に階段をあがっていく。感慨に耽る私はいくぶん腹が立った。わかっている。「思い出の場所がなくなる切なさ」があるあるなことぐらい。そしてそんなあるあるの感情を、普段は私のほうが表に出すのを嫌っていることも。
 しかしいくら独自の感性を大事にする仕事をしていようが、人生で出会う切なさなんてだいたい同じだ。「実家に帰ったら両親が年老いていて切ない」「仲の良かった友達が結婚して切ない」「応援していた歌手が引退して切ない」。どれもこれも多くの人が経験するあるあるだ。避けては通れない、人生のメンタルイニシエーション。その感情に蓋をする必要はない。ないはず。私は自分にそう言い聞かせ、興味のなさそうな後輩相手にらんぷでのあれやこれやを述懐しながら新宿の街を歩いた。

 数日後、テレビ局のメイク室で収録前の齋藤孝さんにお会いした。メガネを外し丁寧にファンデーションを塗られていく齋藤孝を見て、思わず笑みがこぼれる。この光景は「ないない」だなと思ってしばらく眺めていると、今回のコラムを思いついた。コーヒーはなかったけど、そんな15分でもしっかりアイデアの灯がついた。らんぷはずっと、心の中にいる。

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