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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(3)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部を超える大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

●罠の外側を目指して
 以上、『呪術廻戦』について批判的検討を加えてきた。『呪術廻戦』は明るい未来を獲得するための物語ではなく、未来の暗さに耐えながら「今」を生き延びる者の物語である。そして作中における社会の存在感の薄さ、呪術師である「理由」の重視は、社会正義の機能不全を前提に「人を救う」行為の過酷さを耐え抜くために生じた労働モデルであったが、同時に構造の外側へ出ていく余地を失わせる危うい手法でもあった。
 筆者の『呪術廻戦』に対する心証は、総括しがたく入りくんでいる。
『呪術廻戦』に開かれた社会変革の可能性があるかと聞かれたら、筆者は決して首を縦に振れない。少なくとも15巻の時点では、『呪術廻戦』の主旋律は社会変革を志向していない【73】。呪術師の労働モデルは悲しいほど閉鎖的であるし、特に社会正義の敗北・喪失=個人と社会の切断には、息苦しいほどの諦念を感じざるを得ない。
 また、個人的な「正しさ」を執拗に相対化し続ける姿勢は、誰か一人の「正しさ」を絶対化しないための手法として意義があるが、社会正義の無価値化を招き、冷笑的態度の肯定として読解――これを「誤読」と断じられるほどの材料は、筆者には見つけられなかった――する余地を多分に含んでいる。
 一方で、『呪術廻戦』に描かれる未来のなさ、指針のなさ、労働の苦しさ、残酷に接近し続ける死、他者に対する責任の重さ、生き延びるための自閉、これらにまとわりつく不安が作品の隅々まで充満していることに、強い安心と共感を覚えるのも確かなのだ。「明るい未来」がファンタジーになって久しい今、『呪術廻戦』はこれ以上なく生きる苦しみに誠実である。同作は「わからない」世界を生きる苦痛を、絶対になかったことにはしない。不安に縛られて動けずにいる者を見逃しはしない。これはねじくれているが「希望」である。
 ただ筆者はその点に強烈に惹かれているからこそ、『呪術廻戦』が今マスに求められている少年漫画の姿なのだとすれば、それを求める心性は、やはり閉塞した場所にがんじがらめになっているのではないか、と疑わざるを得ない。本当にわれらはこうも無力なのか? 公に共有しうる「正しさ」を考える意味はないのだろうか? われらがあちこちで嵌まり/嵌められつつある無数の罠の外側を、自ら想像/創造することは本当にできないのだろうか? そう思いたくはない、というか、そう思ってしまったら本当に終わりではないか?
 無力さと諦めに沈む「今・ここ」から罠の外側へ向かうには、『呪術廻戦』では徹底して遮断されている個人と社会の関係性を、もう一度構築し直す必要がある。いつまでもここにはいられないはずだ。

【48】『呪術廻戦』14巻、94頁
【49】同14巻、105頁
【50】同14巻、174〜176頁
【51】釘崎の生死は現時点で判明していない(単行本15巻現在)。
【52】『呪術廻戦』15巻、38〜40頁
【53】同14巻、15〜17頁
【54】同15巻、52頁
【55】同15巻、56〜58頁
【56】同15巻、65頁
【57】同15巻、68頁
【58】同15巻、165〜166頁
【59】同15巻、167頁
【60】「気づけば欺き 誑かし 殺し いつの間にか満たされている/人間が喰って寝て犯すようにこれが呪いの本能なんだろう」(6巻125〜126頁)、「軸がブレようと一貫性がなかろうと偽りなく欲求の赴くままに行動する それが俺達呪いだ」(11巻92頁)、前掲注~(15巻、56〜58頁)など、真人は作中で何度も「呪いの本能」に言及している。
【61】拙稿「招かれざる客を招く――『週刊少年ジャンプ』・ジェンダー・閉ざされるファンダム」(『文藝』2020年冬号)
【62】『呪術廻戦』3巻、26頁
【63】同12巻、110頁
【64】同8巻収録、64話
【65】同5巻、128〜129頁
【66】同5巻、141頁
【67】ジャンプと女性差別については、拙稿「招かれざる客を招く――『週刊少年ジャンプ』・ジェンダー・閉ざされるファンダム」(『文藝』2020年冬季号)を参照。
【68】『呪術廻戦 公式ファンブック』、198頁
【69】『呪術廻戦』5巻、137頁
【70】同5巻、141頁
【71】2021年初頭、烏を操る術式「黒鳥操術」の使い手=冥冥(めいめい)の技、「神風(バードストライク)」について、その名称が特攻隊礼賛に繋がるのではないかと批判された事案があった。主な批判者が韓国語圏の読者であったこともあり、日本語圏ファンダムでは反発、あるいは批判を「クレーム」扱いして無視するといった反応が目立っていた印象がある。
「神風」は、カラスに自死を強制することでカラスの持つ呪力を底上げし、そのまま敵に衝突させる大技である。「神風」という名称には、あらゆるものの価値を金で測るキャラクターである冥冥が、自らはなんのコストも払わず、カラスのみに強制的にリスクを負わせて技を打つ構造に対する皮肉が込められていると見て間違いはない。よって、作者本人が特攻隊を礼賛する思想を持っているとは考えにくいだろう。だが表象として問題がないかといえば、全くそうは思わない。『呪術廻戦』における「神風」は効果絶大の大技であり、その行使は冥冥の見せ場として扱われている。問題はこの「かっこよさ」なのだ。悲惨な歴史を指す用語について、たとえ批判的意図が込められていたとしても、肯定的に響く形で取り扱うべきではない。
【72】問題提起の回避については、おそらくは作者が「エンタメ」にこだわっている点と不可分であるはずだ。作者はファンブック上で、庵野秀明の「設定や世界観を過度に説明しすぎず」、「あくまで構成はエンタメに寄せるところ」に影響を受けたこと、作家性や作品のテーマを聞かれた宮崎駿がそれらの問いにあえて沈黙し「自分はあくまでもエンタメをやろうとしている」と応じたエピソードに感動したこと、アニメ『Fate/Zero』について「設定や用語の説明をすっ飛ばしちゃうのが観ていて気持ち良い」「構成をエンタメに寄せているという点が素晴らしい」と感じたことを語っている(『呪術廻戦 公式ファンブック』、218〜219頁)。ここで「エンタメ」という言葉が設定・世界観、作品のテーマといった物語の根底を規定するものを説明しない姿勢とセットで語られている理由は、文脈から考えれば「説明は面白くない」から、となるだろう。
 しかしながら、芥見下々という作家は明らかに説明を好んでおり、同時にその説明癖を嫌悪しているようにも読み取れる。このジレンマを問題提起の回避に連続させて考えると、おそらく作者は『呪術廻戦』内で繊細な(「現代的な」)問題、すなわち説明の必要な問題を扱うのが「エンタメ」性を害すると考えているのではなかろうか。もし本来描いたものについての説明を無数に用意している作家が、説明を行う意欲を抑えることで「エンタメ」を志向しているのだとすれば、問題の所在を理解しながら問題提起まではしないある種の「歯切れの悪さ」は、説明と「エンタメ」との葛藤の結果だと考えられる。
 以上を踏まえてさらに乱暴に踏み込むならば、社会正義をエンターテインメントに織り込んで語る作家であるヤマシタトモコについて、作者がファンブック内で「やっぱりこの人は、何を描いても面白い」(『呪術廻戦 公式ファンブック』、174頁)と評している点も注目に値するだろう。このヤマシタトモコへの言及を、まさに説明と「エンタメ」の葛藤をあっさり乗り越えていく作家への憧れの表明であると読むことは、あながち間違いではないはずだ。
【73】ただし渋谷事変編では実にたくさんの呪術師が命を落としたため、筆者はこの先の物語で呪術師たちの社会が強制的に革新されてゆく可能性は大いにあると考えている。その状況が教育による真っ当かつ時間のかかる社会変革を目指した五条の封印によって生じるのは、皮肉としか言いようがない。

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