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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(3)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部を超える大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

※本稿は単行本15巻までの内容を含みます。

※前回はこちら

●「意味も理由もいらない」という境地――渋谷事変
 虎杖自身の「理由」と「有用性」、そして「共犯」関係。罠のドツボで虎杖の生を支えるこれらの糸が崩れ去るのが、単行本10巻から続いている「渋谷事変」編である。渋谷事変では「正しさ」の価値はおろか、「手の届く範囲」で人を救う行為の意味、「今・ここ」に己が生きている意味そのものまでが決壊していく。
 虎杖の心を追い詰めたのは、いずれも自らの無力であった。まず虎杖は呪霊の受肉体・脹相(ちょうそう)と会敵し、敗北する。その後傷ついた虎杖の身体は宿儺に主導権を奪われ、宿儺は虎杖の身を使って大量の人間を虐殺した。虎杖は宿儺によって焼け野原にされた渋谷にへたり込み、自らに向かって「死ね」と連呼するが、やがて「このままじゃ俺は ただの人殺しだ【48】」と思い直し、挽回のために戦場へと戻る。人を殺した以上に助けなくてはならない。虎杖の心は、この時点ではまだ折れていなかった。
 だが主戦場となっている駅構内に足を踏み入れた虎杖は、目の前で七海の死を目撃してしまう。遺言はたった一言「後は頼みます【49】」、手を下したのは因縁の相手・真人であった。
 虎杖は七海の死に深く傷つくが、同時に釘崎が渋谷で戦っていると気がついたとき、再び立ち上がる力を得る。

「釘崎……!!/ありがとう!!/俺には誰も救えなかった 皆の苦労も台無しにしてしまった それでも/俺は独りじゃないとそう思わせてくれて」【50】

 ここで虎杖を勇気づけるのは、挽回のチャンスではなく、「共犯」相手である釘崎の存在そのものだ。だがその釘崎も真人によって脈拍停止まで追い込まれてしまう【51】。打ちのめされる虎杖に、真人はこう畳みかけた。

「これはな 戦争なんだよ!! 間違いを正す戦いじゃねぇ!!/正しさの押しつけ合いさ!! ペラッペラの正義のな!!/オマエは俺だ虎杖悠仁!! 俺が何も考えずに人を殺すように オマエも何も考えずに人を助ける!!/呪いおれたちの本能と人間オマエらの理性が獲得した尊厳!! 100年後に残るのはどっちかっつーそういう戦いだ!!/そんなことにすら気づけない奴が どうして俺に勝てるよ」【52】

 真人のこの発言は、そのまま読めば首肯しようがない。人を助けることは「正しい」し、人を殺すことは「間違っている」はずだ。しかし『呪術廻戦』はここまでえんえんと「正しさ」を相対化し、それらに違いがないと強調してきた。社会正義が無効化された上で、呪霊も人も大差ない存在であると示唆されれば【53】、真人なりの「正しさ」で振われる暴力を否定できる理屈はもはや存在しないことになる。
 実際に虎杖は自身が抱えた「理由」によって精神的な決壊を迎えた。

「俺はただの人殺しだ!!/俺が信念だと思っていたものは 俺のための言い訳だったんだよ!!」「俺はもう 俺を許せない」【54】

 虎杖は「理由」「有用性」「共犯関係」によって自身を生かしてきたがゆえに、それらが自分の手から失われたとき、存在そのものの否定へ向かう。そこに新たな助け舟を出して虎杖を再起させるのが、虎杖を一方的に「ブラザー」と慕う京都校の呪術師、東堂葵(とうどう・あおい)である。少々長いが、東堂のセリフ全文を引用する。

「俺達は呪術師だ/俺とオマエと!! 釘崎!! Mr.七海!!/あらゆる仲間俺達全員で 呪術師なんだ!!/俺達が生きている限り 死んでいった仲間達が真に敗北することはない!!/罪と罰の話ではないんだ 呪術師という道を選んだ時点で俺達の人生がその因果の内に収まりきることはない/散りばめられた死に意味や理由を見出すことは 時に死者への冒涜となる!! それでも!!/オマエは何を託された?/今すぐ答えを出す必要はない/だが…答えが出るまで決して足を止めるな/それが呪術師として生きる者達への せめてもの罰だ」【55】

 東堂の語りは、「幼魚と逆罰」編最後の虎杖の決意と相似形を描く。答えの出ない状況を背負うのが呪術師の通過儀礼であることはすでに確認したが、このセリフではさらに「答えが出るまで」が実質「死ぬまで」だと察しがつく。「足を止めるな」という助言は、”立ち止まって考える”方向性の放棄であるとも言えるだろう。
 東堂の言葉が虎杖を再起させるのは、死んでいった仲間のぶんまで「答えが出ない」苦しみを引き継がねばならないという、生死を超えた共犯関係の再構築が行われるからだ。「ごめんナナミン 楽になろうとした/罪すらも 逃げる言い訳にした」【56】「俺 ナナミンの分までちゃんと苦しむよ」【57】という虎杖のモノローグは、他人の分まで苦しみを負って生きる道を、死ぬよりつらいが進むべき道として踏み出したことを意味する。
 再び立ち上がった虎杖は真人と同じ土俵に乗り、ついに真人を追い詰めた。

「認めるよ 真人/俺はオマエだ/俺はオマエを否定したかった オマエの言ったことなんて知らねぇよって/今は違う ただオマエを殺す」【58】
「もう意味も理由もいらない/この行いに意味が生まれるのは俺が死んで何百年も経った後なのかもしれない きっと俺は大きな…… 何かの歯車の一つにすぎないんだと思う/錆び付くまで呪いを殺し続ける それがこの戦いの俺の役割なんだ」【59】

 虎杖がたどり着く境地は極めて複雑だ。単純な希望と読むことも、単純な絶望と読むこともできないだろう。
「俺はオマエだ」発言に明白なように、虎杖は呪霊/人間の差異を(「正しい」/「間違っている」同様!)フラットに均す。かつては呪霊の排除については「祓う」、改造人間や受肉体といった人体を伴うものの排除を「殺す」と呼び分けられていたのが、この段階ではすでにどちらも「殺す」に統合されている。
 かくして虎杖は思考を放棄し、かつて強く意識していた自身の生き様/死に様とその意味付けも、自らの死後を生きる他者に託してしまった。虎杖は意味も理由も棄て、歯車としての機能のみを己の上に認め、呪術師という総体の一部になる。未来の喪失が「今」への集中を招き、やがて「今」に対する意味付けまでが放棄されるのである。
 一度自身を命ごと棄てようとした虎杖が、「呪術師」としての苦しみを引き受けることで生き延びる意志を回復する。この一点において「今」の意味の放棄には確かに意義があると言いたい。だが虎杖の手から何もかもが消えたとき、最後に残るのは「呪術師」という立場へのアイデンティファイなのだ。呪術師の労働モデルという罠に苦しんだ虎杖は、あえてより深く罠に嵌まることで生き残るのである。
 ここで、虎杖が罠の外側へ出られる余地があったのか、と考えてみる。だが呪霊/人間が同じ単位になったとき、虎杖の思想は必然のように真人一派の思想をなぞり始める――この状況を考慮すると、「罠の外には出られない」という答えがあっさりと浮かぶのだ。
まず真人一派の戦いの意味は、「100年後」という長いスパンで設定されている。虎杖が自身の戦いの意味を自らの死後を生きる者に託したことで、虎杖は真人の戦場にも「乗った」わけである。さらに虎杖は、真人の語る「呪いおれたちの本能」(あるいは「呪いらしさ」)【60】と「人間オマエらの理性が獲得した尊厳」の対立構造も受け入れ、行動の根拠として握りしめていた「理由」を放棄する。「理由」をもって人を救う呪術師の営為は、虎杖が真人の構図を受け入れたことで「理由」を失い、「呪いの本能」と等価になった。もはや虎杖を動かしているのは、この「呪いの本能」に等しく本質的に響く「呪術師」のアイデンティティだけである。そして「呪術師」のアイデンティティに囚われる限り、呪術師労働モデルの罠からも脱出できないのだ。
『呪術廻戦』は今も物語が紡がれている真っ最中であり、ここで全ての評価を下すことはできない。しかし現時点で言えるのは、この物語はどう読んでも逃げ場がなさすぎるということだ。虎杖は生きるために自分を追い詰める構造へより強く依存していった。生きることとそれ以外全てが天秤にかけられるような状況の連続で、苦しみながら生きる方を選び続ける光景は、筆者の目にはあまりに現実的であるがゆえに、苦痛を覚えながらも救われてしまう。『呪術廻戦』の行く末に、虎杖の、呪術師たちの開放はあるのだろうかと考え、期待もするが、一方でここまで現在進行形の絶望・諦め・不安を見せられてしまうと、開放なく終わる方が現実的であるような気すらするのである。そしてこのどう足掻いても地獄に至る解放可能性の薄さこそが、『呪術廻戦』の痛切な魅力だと言える。

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