加納 Aマッソ

第48回「外がっつり見れるやつはピアスやろ」

 目を開けていられるのは機体が地面と平行な時までで、窓の外の景色が傾いていくのを今まで一度も見たことがない。滑走路でスピードを速めていくその前に、私は丁寧に片方ずつ耳抜きをしてから、「なにか別のことを考えよう」と思っている。しかし機内に響きわたる唸るような走行音に体が硬直し、本当に「なにか別のこと」を考えられたためしはない。こぶしを強く握りしめ、座席の背もたれに徐々に重心がかかっていくのを感じながら、地上から離れた場所で身動きがとれない状況に陥っていることに絶望を感じている。そして睡魔の到来を今か今かと静かに待ちわびる。
 この日は、斜め前の席に座った若い女性がピンと背筋を伸ばし窓の外を見つめていた。えんじ色のセーターに落ち着いた茶色の髪をポニーテールに結っていて、覗いている右の横顔からは薄化粧であろうことがわかる。出発時間になり機体が動き出してからずっと、その視線は窓の外に向けられている。シートベルトを装着し、いつものように目をつむろうと思っているのに、なぜかその横顔から目が離せなくなる。耳についた小ぶりなイヤリングが機体の振動を受けて揺れている。私は怯えながら、重心が後ろに傾き出してからもずっと目を奪われていた。彼女は恐怖心によって耳たぶに穴を開けることを拒絶したが、身体が上空に浮かぶことは快く許している。私は自分の恐怖心がかすむほど、彼女の恐怖心の矛盾で頭がいっぱいになる。
「外がっつり見れるやつはピアスやろ」
 やがて思考は彼女の行動力にまで及ぶ。大きなキャリーバックを頭上の荷物入れにしまっていたのを思い出し、数日間の一人旅であったのだろうと推測すると、次は勇気の矛盾が生まれてくる。
「一人旅ができるやつはピアスやろ」
 手に持っている携帯はカバーがついていない。
「壊れることビビらんやつはピアスやろ」
 もはやこの世でたった一人、私だけが彼女の恐怖心を理解しているような気になる。手にピアッサーを持った謎の男たちに取り囲まれ、恐怖で泣き叫ぶ彼女の姿を想像する。耳に針が通る寸前に彼女は気を失って倒れる。

 景色は遠くまで広がっている。このまま羽田空港ではなく「さあどこへ行こうか」と言えたらどんなにいいだろう。行き先が決まっているなんてつまらない。どんな時でも、そういう考えを持っている自分が昔から大好きだった。私はまだどこへでもいける。何にでもなれる。胸の高鳴りを受けて、耳元の誕生石は今日も揺れる。
 後ろの席から、強い視線を向けられているのには気づいていた。濁った視線だ。きっと私の瞳に果てしない空が映っているのが羨ましくて仕方ないのだろう。夢を捨て、自分の目にはもう何も映らなくなったのかもしれない。いや、そう思い込んでしまっているのもしれない。思い込みは視野を狭くする。かわいそうな目。そう思うと、込み上げてくるものがある。でも泣いてはいけない。かわいそうなこの視線のためにも、私は空を、街を、映し続けなればいけない。私は教えてあげようと思う。あなたの未来も明るいよ、と。大丈夫、怖いものなんて、なにもないんだよと。

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