ちくま文庫

ブレーズ・サンドラール『世界の果てまで連れてって!…』解説

2月刊、ブレーズ・サンドラール『世界の果てまで連れてって!…』(生田耕作訳)の解説を公開いたします。

 作者がのっけから「鍵つきの小説」、つまりモデル小説だと断っているのだから、虚実入り混じる仮面劇とは知りながらも、いちいちの人物の背後に生身の人間を覗き見たくなる。とりわけテレーズに関しては、訳者・生田耕作が後記で触れているとおり、さまざまな女優の名が取り沙汰されてきた。なかでもマルグリット・モレノが重要なモデルだったというのが、現在では定説になっている。テレーズと同じくコメディ・フランセーズ、サラ・ベルナール座を経て、映画・演劇界で長らく活躍した名女優である。彼女の最初の結婚相手は、『少年十字軍』等の傑作で知られる作家マルセル・シュウォッブ。シュウォッブとモレノの関係には、モーリス・ストロスとテレーズのあいだを思わせるような点がいろいろとあったようだ。そしてモレノが1945年、74歳にしてジャン・ジロドゥー作の『シャイヨの狂女』の主役を張り、好評を博したことは、サンドラールを大いに刺激したに違いない。その際に演出を担当したルイ・ジューヴェ(演劇界の大立者にして映画にも出演多数)を本書のフェリクス、美術監督を務めたクリスチャン・ベラール(コクトーの親友)をココにだぶらせてみたくもなる。
 そして特筆すべきは、サンドラールの二度目の妻レモーヌ・デュシャトー(1896~1986年)の存在だ(生田さんはレイモンドと記しておられる)。ジューヴェ一座の女優として活躍したレモーヌは、サンドラールにとってまたとない情報源となったはずだ。ともに暮らし始めて約40年もたってから、作家はわざわざカトリックに改宗して、レモーヌと宗教上の結婚を果たしている。この小説の沸騰するような言葉の熱量を支えているのは、長年にわたる同志に対する愛情と感謝でもあったろうか? ただし近年刊行された書簡集によると、二人の関係は終始完全にプラトニックな、いわゆる「白い結婚」だったというから驚きである。まさに「人間は一回ごとに一つの啓示である」
 サンドラール作品における人間群像の猛烈さに感銘を受けたヘンリー・ミラーは、「これこそは真の"人間喜劇"」(『わが読書』)と賛辞を捧げた。サンドラールその人は、ことによると、清純一筋をとおしながら過激な言葉を紡ぎ続けたのか。そこには何か根源的な逆説にもとづくダイナミズムがあったのかもしれない。ともあれサンドラールの文章は、社会の底辺に這いつくばるかと思われるそのときにもなお、磊落(らいらく)な力強さを失うことがない。それこそサンドラール文学の偉大なる逆説だろう。「黴毒め(ヴェロール)!……」には、どんな病原菌をも恐れない豪放なたくましさがある。いまの時代に本書が復刊されたことの意義を感じる。テレーズたちの姿は、ウイルスの脅威を前に縮み上がってしまったぼくらの精神に、したたかに活を入れてくれるはずだ。

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