私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【後編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

〈成熟〉をめぐって
けれども――けれども、あらゆる矛盾をそのままに含み持とうとする物語にあっても、「黒い花嫁」たる母の問題は結局のところ解消され得ない。母にならないことでもって〈花嫁〉を解放の象徴たらしめたその物語は、だから母を決して解放することが出来ないのだ。
たとえば『ノケモノと花嫁』と同様のテーマを持つ『輪るピングドラム』にあっても、荻野目苹果が試みる妊娠=マタニティは恐ろしく暴走する誇大妄想として描かれていた。『少女革命ウテナ』とはもちろん「少女革命」であって、母という女性ではない仕方での成熟が描かれていた。『ユリ熊嵐』において、主人公の母はあらかじめ失われた存在だった。『さらざんまい』は少年たちの物語であった。母はどこにもいなかった。
大人とコドモの対立をめぐる問題は、「母」に対するこの種の不可視化を持って複雑化する。様々な物語で繰り返し主題化されているように、他者を傷つける「大人」になることは避けなければならない。描かれる「大人」はバッドエンドになるばかりである。脱出しなければならない。異なる仕方で「大人」にならなければならない。けれども「母」になってもいけない。幾原邦彦監督作品では、シスジェンダーで異性愛者としての身分を確立するのではない別の仕方での「成熟」が常に描かれる。
それは希望であると同時に、黒い花嫁=母を、決して解放せず棺の奥深くに閉じ込めることによって成り立っているのだ。
あらゆる全てを救い得ないのは物語の欠点ではない。けれども何がそこに抜け落ちていたのかを考えることは重要である。なぜならある意味ではその欠落は、物語を受け取り、愛する私たち自身が自ら引き受け、探り出すべきものなのだから。

最後の花嫁――世界が革命され、運命が乗り換えられ、断絶の壁が越えられ、身も心もさらけだすさらざんまいで未来が目指され、あらゆる仕方で解放が描かれる中で、常にそこから取り残されていた人とは、だから、母だったのだ。