私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【後編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

革命から取り残されたのは誰だっただろう?
幾原邦彦監督作品は常に、傷ついた子ども達の味方だった。
他人を傷つけてやまない「大人」達が様々に描かれる中で、別の仕方での成熟が、解放が模索されていたのだ。けれども「大人」になってもなお生き続ける様が具体的に描かれることはなく、常に示唆されるに留まっていた。それでは世界が革命され、運命が乗り換えられ、断絶の壁が越えられ、身も心もさらけだすさらざんまいで未来が目指され、あらゆる仕方で解放が描かれる中で、常にそこから取り残されていた人とは誰だっただろうか?
棺の奥深くに閉じ込められたまま決して解放されない〈花嫁〉とは、一体誰なのだろうか。

ノケモノと花嫁
さて、『少女革命ウテナ』(1997年)が〈花嫁〉の解放を描いた物語だったとすれば、その後にあった『ノケモノと花嫁 THE MANGA』(2007年〜2020年)とは、解放がまさしく〈花嫁〉に託される物語であった。幾原邦彦が原作を担当し、中村明日美子によって漫画化されたこの作品は、虐待された子ども達を描くものであったのだ。
主人公となる少女・ヒツジと熊の着ぐるみをまとった少年・イタルの「カケオチ」なる逃走劇で幕を開けるこの物語では、『少女革命ウテナ』とはまた別の意味が〈花嫁〉に与えられていた。二人は結婚するのだという。結婚すること、それこそが「世界を救う唯一の方法」に他ならないのだと。
なぜ『少女革命ウテナ』では否定的な意味を負わされていた〈花嫁〉がここでは解放の象徴になり、「結婚」こそが世界を救う唯一の方法だと語られるのだろう?
それは「結婚」が現状、家から出る無二の手段だからである。選べなかった家族を、自らの意思で選び直す手段だからである。婚姻制度が孕む問題は、言うまでもなく様々にある。
けれども『ノケモノと花嫁』において何より重要なのは、それがある共同体から別の共同体への移動を象徴することにあるのだ。
人は生まれる場所を選ぶことは出来ない。そしてこの物語では、親に虐待され死に至った子ども達が「燃えるキリン」なる組織を結成し、憎悪と復讐心を糧に大人達に対抗することを誓っていた。だが幸運にも生き延びることができれば、人は必ずやがて大人になる。大人とコドモの対立のみでは、続いていく人生を生きることができない。
だから物語は別の道を探るのだ。イタルは「燃えるキリン」のかつての代表者であり、ヒツジと結婚するべく組織から離脱した離反者であった。イタルの離反を許さない「燃えるキリン」の面々――とりわけ兎河ギン――から彼とヒツジが逃走する様、そして「燃えるキリン」に属する子ども達やヒツジ自身の悲劇が、『ノケモノと花嫁』では描かれるのである。

もちろん『輪るピングドラム』(2011年)でも、様々な傷を抱えた子ども達が新しい共同体の姿を探し求める様が描かれていた。血の繋がらない子ども達による「家族」の形成、そして大切な人間を失った者同士によるそれ――このことは生まれ育った「家族」によって傷を負わされ、形成されてしまった自分という存在の外に、新しい何かを探すことでもあった。
人は常に自分では選びようのない諸条件、とりわけ家庭環境によって形作られる。だから始めに出会い、自分を作り上げた「家族」から逃れることと、自分という存在そのものを新たに作り変える試みは常に絡まりあう他ないのだ。
卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく――『少女革命ウテナ』で印象的に繰り返されたあのフレーズは、『ノケモノと花嫁』にあって比喩ではなく文字通りの意味として再び重要になる。卵の殻=生まれ育った家族から逃れられなければ、死んでしまうのだと。
思えば『少女革命ウテナ』でも重要だったのは、学園の外に出ることであったのだ。学園という子ども達の世界では、人々は常にある意味で自分自身のみ、、、、、、を愛していた。
たとえばウテナは王子様という「なりたい自分」を追い求めていた。ナルシシズムに溺れる男達(冬芽、西園寺、暁生)は自分の思うがままになる、自己の一部としての「薔薇の花嫁」を、樹里は屈託を抱えた詩織というよりはある種の「奇跡」を、幹は存在し得ない理想化された「過去」を愛していた。各々は心の中に抱かれた理想、現実には不可能な不滅の自我――永遠という名の城――に囚われていたのだ。だから学園の外に出るとは、自分だけの世界からの脱出であった。
そして子ども達だけの世界に焦点を当てた『少女革命ウテナ』から『ノケモノと花嫁』に至って、親というもの、それとのあまりにも苛烈な対立が焦点化される時、「結婚」が極めて切実な意味を帯びるのである。