移動する人びと、刻まれた記憶

第5話 「幸福の国」を探す②

韓国フォークの開拓者、ハン・デスの旅(後半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第5話後篇です。フォーク・シンガー、ハン・デスの韓国へのカムバックのいきさつ、妻オクサナさんのこと。ぜひお読みください。

第5話前半はこちら↓
https://www.webchikuma.jp/articles/-/3444

『遠く遠い道』(1974)
 1972年の憲法改正で独裁体制を固めた朴正熙政権は、大統領緊急措置法を連発して反対派を徹底的に弾圧した。抵抗する者を連行し拷問し、肉体ばかりか精神までも破壊しようとした。文化人や芸術家も例外ではなく、日本でもよく知られた詩人の金芝河も74年4月に「内乱煽動罪」などで逮捕されていた。
 その翌月、1974年5月にハン・デスは3年間の兵役を終える。軍隊生活について彼は、「自分の人生の中で消してしまいたい時間」と、自叙伝である『俺は幸福の国へ行く』(2005年、アチミスル)に書いている。
 「私は人間ではなかった。誰もが人間ではなかった」(同書)
 ベトナム反戦とヒッピー・ムーブメントのニューヨークから来たハン・デスにとって、韓国での軍隊生活がどれだけ過酷な体験だったかは想像を絶する。
 ただ、彼には待ってくれている恋人や仲間たちがいた。ファースト・アルバム『遠く遠い道』は、彼が除隊してすぐに録音、リリースされた。「ムルジョムジュソ(水をくれ)」や、先にヤン・ヒウンが歌って大ヒット曲となっていた「幸福の国へ」なども、あらためてハン・デスの声で収録された。
 そのアルバムは大いに話題になり、年末の第1回韓国歌謡大賞でハン・デスは10大作曲家賞にも選ばれた。ところが前回の最後で触れたように、そのアルバムはすぐに発売禁止となり、続く2作目の『コムシン』はマスターテープまで没収されてしまう。

韓国のボブ・ディラン?
 ハン・デスのアルバムが世に出ていた短い時代の記憶を、ひょんなことで知らせてくれた人がいる。私が編集していた同人雑誌『中くらいの友だち』の創刊号(2017年4月)に掲載された佐藤行衛氏の「超極私的韓国ロック名盤」を読んで、読者の一人が感想を送ってくれたのだ。
 「……1974年は朴正熙大統領の軍事政権下の戒厳令が敷かれていた時代で、その歌を、私は西江大学のそばの喫茶店で聞き、『韓国のボブ・ディラン!?』と直感。誰の歌なのか、清渓川のレコード屋街を歩きまわったものの見つけられず、その私の中で幻となっていた『韓国のボブ・ディラン』がハン・デスさんの『ムルジョムジュソ(水をくれ)』、自由をくれという意味の歌だったかもしれないという発見、感謝です。(名古屋市 李銀子)」(『中くらいの友だち』2号 読者からのお手紙)
 この投稿が縁となり、李銀子さんはその後に同人メンバーとして、当時のことを書いたエッセイを寄稿してくれた。李さんは1955年に日本で生まれた在日2世であり、74年春に母国留学のためにソウルに渡ったのだが、機動隊に封鎖されたソウル大学のキャンパスで、自分と韓国の関係を見直すことになる。
 「祖国は単に憧れたり、いつもわたしを包んでくれるような甘美なものではありえない」(李銀子「『ことばの杖』を求めて 李良枝――同時代を生きた友へ」)
 それは泣き叫ぶように親を求めたハン・デスの挫折と、どこか似ているようでもある。      
  「韓国に来る前の、日本にいる時の私も不幸だったが、『祖国』はそれ以上にもっと不幸であるように思えた」(同上)
 李さんの文章をあらためて読み返しながら、ハン・デスが米国で「幸福の国へ」を書いた時の気持ちを思い出した。
 1974年に韓国の学生街の喫茶店で、李さんがハン・デスのレコードを聞けたのは、本当に束の間の偶然だった。でも歌はその偶然のチャンスを逃さずに、人びとの心を捉えてしまう。だから独裁政権はあんなにも躍起になって歌を弾圧したのだろう。ハン・デスは幻ではなかった。
 1977年、ハン・デスは半ば亡命のような形で米国に向かう。もはや韓国では全ての自由が凍りついていた。ハン・デスが再び韓国の人びとの前に姿を表すのは、それから20年余り後である。

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