移動する人びと、刻まれた記憶

第5話 「幸福の国」を探す①

韓国フォークの開拓者、ハン・デスの旅(前半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第5話前篇です。1960年代末にアメリカから独裁政権下の韓国へ戻ってきて歌い始めたフォークシンガー、ハン・デスについて。ぜひお読みください。

大阪発釜山行き、パンスター・フェリー
 今年の旧正月は家族で過ごすことになっていた。大阪発釜山行フェリーは週3回、午後3時(もしくは5時)に大阪港を出る。夕焼けの瀬戸内海をクルーズし、一の谷、屋島、壇ノ浦とまるで落ち武者のようなコースを進み、深夜に玄界灘を渡る。冬はすぐ日が落ちてしまうが、夏なら途中で瀬戸大橋や瀬戸内の島々も眺められる。飛行機と違って6歳未満は乗船料がかからないので、子どもが小さかった頃は帰省のたびに利用していた。
 船内のレストランでは、夕食の後にイベントも行われる。この日は「のど自慢大会」だった。こういうのは韓国の人々が得意なのだが、エントリーの一番は日本の中学生だった。彼が『ONE PIECE』のテーマソングを歌うと、韓国の若者たちが早速反応していた。でも上手なのはやはり韓国の人たちで、「さすがだよね」「うんうん」と日本人の女性グループがうなずき合っていた。船は昼の12時前に釜山港に到着した。

 釜山に着いてすぐ、センタムシティの教保文庫に行った。教保文庫は韓国でもっとも大きな書店チェーンであり、話題となった本は大抵そろっている。お目当ては昨年末に出たハン・デスの写真集だった。
 ハン・デスは韓国にフォークソングをもたらした人だ。彼が作詞作曲した『幸福の国へ』は、軍事政権下の弾圧の中でも歌い継がれ、1980年代に日本の大学生だった私のところにも届けられた。韓国で暮らし始めてからも、「生きられるさ、太陽さえあれば」というフレーズには何度も救われた。抵抗のシンガーとして知られ、韓国のボブ・ディランとも言われた彼だが、長年にわたる生業は「写真」だった。
 書店に入ったら、まずは検索をする。在庫「1」という数字が目に入る。わお、ラスイチとはラッキーじゃないかと、喜んで書棚に向かって、背伸びして本を手にする。少しだけがっかりしたのは、本がビニールでがっしり包装されていたことだ。その封印を解くには、買うしかない。定価38,000ウォンは約4,000円。数秒迷ったが、買ったあとは気持ちが高揚した。

生きるという苦しみ  I suffer therefore I am
 タイトルは『삶이라는 고통』。日本語に訳すのは難しいけれど、とりあえずは「生きるという苦しみ」だろうか。ちなみに、ハン・デス自身がつけた英語のタイトルは、 I suffer therefore I am (我苦しむ、故に我あり)である。
 彼は1948年に釜山で生まれ、10歳でニューヨークに渡った。その後、中学生で釜山に戻り、高校の途中で再び米国へ。68年、20歳で韓国に戻って音楽活動を始めたが、軍事政権下で出したアルバムは全て発禁となり、失意の中で77年に米国へ。
 韓国の人々の前に彼が再び姿をあらわしたのは、それから20年余りたった1998年だった。「彼が帰ってきてくれて、本当に嬉しい」と、当時の友人たちは興奮していたが、その話はまた後で。
 10代の頃から彼は韓国語と英語を話し、韓国と米国で学校に通い、表現活動をしてきた。「文化的混血児」という韓国人の表現を、彼自身も「正確な評価だ」と認める。彼は完全なバイリンガルであり、彼の詩は時に韓国語で、時に英語で書かれる。
 「삶이라는 고통」という韓国語と、「I suffer therefore I am」という英語と、私が韓国語から直訳した「生きるという苦しみ」という日本語は、それぞれの言葉によってニュアンスが違うと思う。「I」という主語のある英語の強さもさることながら、生きることを一つの名詞にした「삶」という韓国語の深さを、日本語にするのは難しい。英語の「suffer」もしかりだ。
 では、写真はどうだろう? 写真集の帯のキャッチコピーにはこう書かれている。
 「数十個の箱の中に収められたネガフィルム。その中から発見された1960年代のソウルとニューヨーク……未公開の貴重なモノクロ・カラー写真100枚余りを収録」
 この写真集を紹介する韓国メディアの記事には、「当時のソウルとニューヨークのコントラストがはっきりとわかる」という表現が目立った。世界の最貧国と言われた韓国ときらびやかな先進国との違いは、もちろん凄まじかっただろう。でも私が彼の写真から感じたのは、そのコントラストではなかった。

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