筑摩選書

観光とミステリから見えてくる中産階級の二〇世紀

東秀紀『アガサ・クリスティーの大英帝国――名作ミステリと「観光」の時代』

 テレビの二時間ミステリが好きだ。なぜかいつも観光地で殺人が起こり、時刻表を巡るトリックがあり、必ず犯人が崖の側で告白する例の奴だ。これらの要素は、どれも実は松本清張が生みの親である。だが思い起こせば、アガサ・クリスティーの小説の多くだって旅情ミステリだった。かつて、そんな観光とミステリについてのエッセイのようなものを書いたことがある。観光とクリスティーを本格的に読みとく本を誰か書くべきではないかとは、ずっと思っていたのだ。
 本書は、建築史、都市計画史を専門分野に持つ著者の手によるクリスティー論だ。しかも彼女の作品を通じて「大英帝国」の没落を読み取っていくという性質のもの。そこで重要な読み解きツールとして使われるのが「観光」。そう、特急列車に豪華客船、高級リゾート地にオリエント世界など、一連のクリスティーの名作から思い浮かぶアイテムはどれも二〇世紀前半の「観光の時代」の到来と結びついている。
 とはいっても『オリエント急行の殺人』(一九三四年)や『ナイルに死す』(一九三七年)といった作品がミステリとして優れているのは、そこに豪華な旅行の過程や旅情が描かれたからではない。むしろ、あらゆる階級、国籍、職業、年齢の人々が居合わせる場所として観光のための乗り物がふさわしかったからだろう。クリスティーは、犯人捜しの舞台として観光というアイテムを用いただけではないのか?
 いや違うのだ。著者は『青列車の秘密』(一九二八年)という初期の長編を読み解く。この作品には「それまで上流階級に独占されていた観光」が「中産階級にも広がり」を見せていったという「観光」の変化が描かれていると。
 クリスティーがミステリの背景として描いた「観光」の舞台は、新しい階級と古い階級が入り交じる新しい英国社会の縮図だった。さらに観光は、大英帝国の発展とともに生まれ育ったもの。クリスティーの「観光ミステリ」は、産業化され、もうすぐ大衆化されようとする観光の姿を捉えている。
 ただし、彼女が観光小説を数多く書いていたのは、一九三〇年代までのことだという。第二次世界大戦後、クリスティーの作品における中心も「田園ミステリ」へと移り変わっていく。この辺りの読み解きこそ著者の本領の部分。「田園ミステリ」には、戦後のイギリスにおいて、中産階級の生活の崩壊に見舞われつつあった英国の理想と挫折が描かれているという。
 戦後の都市計画の中で「都市と田園が調和した環境の創造を目指す」ことを旨とした〈大ロンドン計画〉が構想される。戦争や産業革命によって失われた英国の美しい田園を再び取り戻そうという計画である。
 しかし、田園風景に囲まれた大邸宅での使用人がいるような生活は、すでに過去のものになりつつあった。かつての田園のある村は、外地=植民地や都市部から来た「新参者」や「よそ者」で溢れるようになる。クリスティーが生んだポアロではないもう一人の名探偵ミス・マープルが登場するシリーズでは、かつての理想的な田園のあった村がよそ者によって変えられてしまうみたいな話が幾度も登場してきたっけ。
「上流階級の中に紛れ込んだ中産階級の娘」みたいなシチュエーションがかつてのクリスティーの小説の十八番だった。だが、その中産階級に替わって労働者階級が登場してきた。大英帝国は、いつしか社会保障大国に変貌。事件解決のために私立探偵なんて誰も雇えない時代にポワロの出番も大きく減ってしまうのだ。
 クリスティーの生涯の作品を通して見えてくるもの。それは小説の登場人物としてたくさん描かれる中産階級の地位の変化だ。いや、それは本書におけるクリスティーの読み解きがあって、初めて見えてきたものである。

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