僕らはこうして家をつくる

創作の種はどこにあるか

『建築という対話--僕はこうして家をつくる』(ちくまプリマー新書)刊行記念対談最終回

建築家は何を根拠に設計するのか

光嶋 僕は設計者の立場で言うと、ピーター・ズントーとかザウアブルッフ・ハットンも、もう亡くなっている歴史的なガウディもコルビュジエも、羨ましいんです。コルビュジエのロンシャンの礼拝堂は、世界中から人が見に来て、愛されている。そういう建築を見ると設計者は何を根拠に、何を夢見ていたんだろうかと思うんです。建築家たちとそういうことをスケッチしながら対話してるんです。
 何を根拠にして説明すれば説得力をもてるのか。思考なき建築というのは弱いものだから、創作する中での表現の核が自分の中になくてはダメだと。
 僕は個人住宅を設計することが多いので、基本的にAさんに依頼されて、Aさんの気持ちになって建築を設計する。顔の見える建築です。今は38歳ですが、40代に入っていくともう少し公共建築に対するチャレンジもしてみたいと思っています。その時にいかにして建築をつくるかということを、ある法則なのか、ポリシーなのか、なにか普遍性にたどりつかないと建築に強度がないんじゃないか、と思っています。それが僕にとっては「生命力」だったり、身体感覚だったり、なかなか数値化できないし、単純にこういうルールに則って設計しますというものではないけれども、それを確立した中で戦っていきたいと考えています。
 コンペに勝って小学校を建てる、美術館を建てるとなった時に、Aさんや内田先生のために凱風館をつくったように、「他者への想像力」をもった建築ではない、普遍性にたどり着くためのトレーニングとしてドローイングを描いているような気がします。
 文章を書くのと、絵を描くのと、線を引く、というのをやってそれを「自分の線」にする。自分の文字にして自分の言葉にするということを常々やるべきだというのは、僕が石山さんから学びました。学生時代は石山さんの建築の表層を真似してしまっていたけれども、そこには限界を感じて、そこには抑圧をかけるようになりました。自分の核となる部分はそうじゃない部分。師から学ぶべきことは、造形ではなく、その背後にある思想的なスタンスとかであり、結果的にドローイングを描くことだったり、文章を書くことだったりするのという建築家としての働き方だというのが現時点です。
 今まで個人住宅という顔の見える建築をつくってきましたが、これから顔の見えない建築をつくるためにはどうすればいいのか……。それでも藤森さんは茶室をつくり、高過庵は御柱のおもてなしの空間から始まったというのを初めて聞いて驚いたんですが、用途の明確なもの、そこから、ラ・コリーナなど新しい空間を常につくり続けています。これからつくりたい建築というのは明確にあるんですか。それとも場所とか人とか決まらないとアイディアは始まらないんですか?

藤森 場所を見て形を決めることはあんまりしない。

光嶋 おお、それはすごいですね。僕はむしろ、常にその場所から想像することから始まるので。

藤森 一応場所と合わないと困るから修正しますけど(笑)。そんなに地球って変わらないですよ。土があって、岩があって……。そんなに違いはない。草とか石とかに国籍はない。世界中同じです。海も空も国によって違ってたら困るし。

光嶋 そうですけど、藤森さんのすごいところは歴史家から設計者になった時の真似をしないという話から、時間軸の大きさというか、真似をするならもはやスタンディングストーンくらいからのことを考えているじゃないですか。学生時代に僕は目の前の師匠の真似をしているというこの時間軸たるや(笑)。その中で時間軸のみならず、場所からも自由……。
 僕は常に場所から建築を考えたいんです。敷地という絶対的個別性から空間を考えたい。少し専門的な話をするとモダニズムという「国際様式」とも言われ、サヴォア邸がコルビュジエによってピロティで大地から引き剥がされ、大地とは関係なく白い箱が浮いている、ことが重要なマニフェストとなった。だから大地はどこだっていいんだ、場所なんて関係ないとしたけれど、そうじゃないだろう、と。

藤森 私もそう思っちゃいますけどね。

光嶋 だからこそ、場所はとても重要じゃないですか、北海道なのか、沖縄なのか。

藤森 でも北海道だって沖縄だって、そんなに変わらないでしょう。

光嶋 それがすごいと思うんです。今、大牟田の現場でつくっているんですが、大牟田らしさってなんだろうとか考えてつくっているんです。もちろんクリアカットには説明できないけれども、どうにか不連続な統一体をつくるためのコラージュする要素、材料を探そうとする中でその場所性、その人、そこに来る人を束ねることをイメージしながら設計している。でも藤森さんの発想の広さたるや……もはや、地球規模(笑)。

建築家としての迷いが消えた瞬間

藤森 私がそういう発想をもったのは、私以前にそういう発想を持っていた人がいた。それこそが、「不連続統一体」を説いた吉阪隆正さんなんです。 
 僕は吉阪さんの言葉に救われて私は建築家としてやってこられたんです。

光嶋 もう時間がないのですが、最後に、藤森さんが吉阪さんの言葉に救われたというのはどういうことなのでしょうか。

藤森 処女作をつくらなければならなかった時に、まず最初に長野県のあの辺りの様式である本棟造りとか歴史的なものをやってみたらすごく嫌らしいものになった。人間というのは変なもので、設計している最中はいいと思ってるんです。3日ぐらい後に見ると、えーー、気持ち悪いものつくってるな、と思う。何かに媚びている。あと、石山さんとか安藤さんとか伊東さんとか若い頃から知っているから、やっぱりいつも気になるわけ。
こんなのつくったらなんて言うかなとか。
 歴史的に同じ様式のものはやっちゃいけないし現代建築もやっちゃいけないと思った。そうしたら、何をしていいかわからない。そういう気持ちでもやもやしていて、相当行き詰まった時に、吉阪さんが若い時に書いた文章を読んでそういうのから自由になったの。

光嶋 そこには、なんと書かれていたんですか。

藤森 学生時代か大学院時代に、蒙古と中国の間あたりへ早稲田で隊を組んで調査に行った。その時に草原があって、そこに土で作った家があった。入り口がひとつ開いていて、窓もなくて、木が立っていて、その木に布を張っていてそれがドアの代わりをしていた。それを見た時に、自分は叫び声を上げながらそれに近づいていったと。それで吉阪さんが孫悟空というのはこういうところを飛んでいたに違いないと書いていた。
 それを読んだ時に、自分のそれまでの建築の歴史だとかいろんなことから開放された。それで吉阪さんが見たに違いないものを想像して描いて、それが神長官守矢史料館の元になっているの。

光嶋 そこに創造力を働かせることで自由になった。そういうことなんですか。

藤森 そう。後でその時吉阪さんがスケッチしたものを見たんだけれど、それを見たら、私が想像したのとは相当違っていた(笑)。吉阪さんは人間が初めて物を作った瞬間みたいなものをいつも考えていたんだと思う。そういうことに興味があって、コルビジェにあんなに愛されずに、あんなに影響を受けなかったらだいぶ違った建築をつくっていたんじゃないかと思う。吉阪さんの本当の心を掴んでいたのは今和次郎だから。今和次郎は御存知の通り日本の民家の研究をした人でその中国へも民家の調査に行ったんですよ。
 僕は今和次郎と吉阪隆正が一緒にいる瞬間を見たことはないけれど、今さんは時々吉阪さんの研究室に来ていて、先生がいる間、直立不動で絶対に座らなかったんだそうです。 それくらい、本当に尊敬してたんだよね。
 今和次郎は、バラックが震災でできた時に、これこそ人間がものを作ることの原点だと言ってスケッチをし続けた。物がなく恵まれた状況でないときにも、手に入る材料をつくって人間は家をつくり始めるわけです。その瞬間やそこへの関心が吉阪さんには間違いなくあったと思う。

光嶋 それを継承して自分の中で持ち続けたことが、藤森さんの創作への大事な種になったんですね。

藤森 そうそう。ただ、吉阪さんはそういう思いを持っていたけれども、コルビュジエに会ってしまって、影響を受け、コルビュジエ的なことをやらざるを得なかった。だけれども、そうでないことをずっと考え続けていたことは間違いない。彼ができなかった面白いプロジェクトがいくつもあるんだよね。それが、実現していないのが残念です。

光嶋 まだまだ聞きたいことが沢山あるんですが、建築という、本来、人間にとって命の根源的な衣食住に関わることなのだから、誰とでも対話できるはずだというのが、僕にとっての本を書く原点になっています。そして、誰とでも建築の話はできると信じているので、最後マニアックな話もありましたが、対話は開かれているということを藤森さんの本からも学んだし、石山さんから教わったことでもあるので、これがひとつのきっかけとなってまた対話が続き、それぞれ建築をつくるためのまた何か小さなきっかけになっていけばなと思っています。
 今日は長い時間、本当にありがとうございました。

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